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by kazem2
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[電影ゲクジャン] その響きは悲しみから始まった

☆CINE21.com
凡作と見えた<白いリボン>の一場面で安堵を感じた理由
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日本ではこの秋公開されます



映画が始めて、暗転した画面の上でナレーションが流れる。
"私が今している話が完全に事実なのかは分からない。一部は伝え聞いた話だ。多くの時間が流れた後にも多いことらが曖昧で質問は残っている。 "注意深く考える単語は『あいまいさ』だ。それはまた、監督ミカエルハネケの主張でもある。彼は"急進的に解答を否定する時、観客は自分だけの解答を探しに出ること" ( <シネ21> 760号)と話した。この映画に対するほとんどすべての評価もその点を美徳に選ぶ。知らされた通りスリラーのコートを借りているけれど、誰が事件の犯人なのかに対する答を明らかにしない設定に対して十分に納得するという見解らだ。不慣れではない。ハネケは自身の叙事中で『誰がそうしたのか』に対する答を持っていなかった、あるいはそれを回避したり重視しなくなければならないという一種の原則がある監督だ。彼はそれが歴史と現実の中で映画を作る時、監督としての倫理と考えるようだ。彼の前作の<ヒースは>でもブルジョア中産層家庭を恐怖で亀裂するビデオテープをいったい誰が送ったのかはついに明確に明らかにならなかった。ハネケやはりそれが意図だったと明らかにしたことがある。本当にその事実が重要ではないのか?もちろん彼の意図が犯人が誰なのかを知ることになる瞬間のジャンル的快感に対する拒否で、観客自らの理由のための選択ならばある程度は受け入れなければならない必要がある。だが<ヒースは>に対する友好的な評価、特に最近<白いリボン>に対する終始一貫した絶賛がハネケのの上のような意図を遠慮なくそのまま受け入れようとする時どんな不便さがある。

もちろん<ヒースは>と<白いリボン>は他の映画だ。私は<ヒースは>が評論家ホムニョンの指摘のようにハネケの意図とは別個で、それにもかかわらず、いったい『誰が』悪夢のビデオテープをブルジョア家庭に送ったのかに対する質問が重要な映画というのに同意する( <シネ21> 547号) 。その質問を映画を支える空っぽの質問と感じる時、別に話して、その質問の強力さに始終一貫身震いしながらもそれに対する答を求める過程を当初不可能性中に閉じ込めてしまう時、ここには結局あきらめだけ残ることになる。世の中が明確な因果関係で成り立ってすべての問題に答があるという主張をしようとするのではない。この時代にそれを信じる映画はかえって偽善に近づく。 <ヒースは>の態度を支持できないのは映画が世の中中に質問を抱いて入ってくる時、答も共に抱いてこないことでなく、ついに自身の質問を無化させてしまったという事実にあった。なので<ヒースは>が結果的に答を求める過程を軽く見られたという点は批判の根拠になることができる。

誰も話さない共同体の不道徳<白いリボン>の場合はちょっと違った脈絡に置かれる。ハネケの話のようにこの映画は誰が犯行を犯したかを推理するのに目的を置いた話ではなくてこれにうなずくに値する。医师の落馬事故が起きて、小作農の妻が墜落死して、男爵の息子と産婆の障害を持った息子が集団暴行にあっても、この事件の背後を暴くのは格別意味がないように見える。まず映画が推理過程に関心を持たないで、映画の中の村の人々もまた、事件の強盗に比べて事件の背後を聞き込みするつもりがなくて(警察が登場するが、彼らは単に儀礼的な捜査だけするだけで、映画後半にナレーションの主体者の村の学校教師が学生たちを突然に追及するがその過程がち密でないのみならず粘り強くもない) 、映画を見る間私やはり犯人の存在が重要に思われたり大きく気にならなかった。だが、これが米国評論家ロジャーエボトゥの言葉通り、"悪いことらは時々何の理由なくても広がる。宇宙は人間の規範をあざ笑って自分の意志のとおり行う"という式で説明する問題ではないようだ。

かえって<白いリボン>は事件の原因が随所に一杯になっているが、本来犯人はない状況と向き合う映画だ。そして映画の中でその原因は比較的明確だ。共同体内部の偽り、利己心、暴力、疑い、欺瞒、抑圧、怒りあるいは階級的敵対などが白いリボンが象徴する純潔さの中で隠蔽されて統合される。事件の結果はあるが犯人を探すことはできない映画はたくさん見ても、推定できる原因らとぞっとする結果は目撃してもその犯人はない、いや、明らかに目前に迫る存在野原の中の一つだが、誰もそれを探そうとしない状況はありふれていない。その誰でも違反を犯さずにはこれ以上存続できない程原因らで膨張した共同体。すぐにそのために違反を犯した者を知らないふりして維持される共同体。これが共同体の悪循環だ。ハネケがそのような共同体の悪循環を見せながら自身やはり犯人を明らかにしない理由はもちろん他のところある。彼は事件が特定人物の悪行で遡及するのを警戒する。抑圧的な道徳で始まった事件であってもこの事件を個人の道徳の中にだけ限定作るのは彼が望む方式でない。彼がこの映画を"テロリズムの祈願、悪の祈願、急進主義の祈願"に対する話とあえて付言することもそのような脈絡の上にあるだろう。

だが、これが今この時代を生きるあなたに賛嘆する程衝撃的に新しいのか?それならあなたは世の中に対してその間無知だったり知らないふりしたのだ。 1913年の話が2010年の現実に重なるというのは明らかにぞっとするが、多くの人々がこういう話あるいは結論ですごい覚醒を得たように対する反応がちょっと変に感じられる。ついに犯人が霧の中に残るようにする映画の意図に全面的に共感する批評中でもそれがなぜ重要なのかを具体的に説明する文もまた、まだ見ることができなかった。一つ前提だけは共通するが、映画が直接提示しはしなくても村子供たちを事件の背後で暗示していてその中で次世代の破局の根源を見ているという見解だ。映画が子供たちの犯罪行為を見せることはないけれど、暴圧的な家では機械のように服従して外では集団的に幽霊のように漂う、それと共に時々残酷性を噴出する(鳥を殺す少女! )姿が情況上そのような前提を提供するというのは異見を付けるつもりがない。この映画の究極的なメッセージ-ハネケの言葉を借りれば、"この映画は過去の私たちでなく今私たちに対する映画だ"のような映画の現在性に対する強調-を支持する一連の反応らが上の前提を積極的に引き込んで<白いリボン>を現実政治の中に呼び入れて、そのような次元で映画の位置を格上げさせることはできるだろう。だが、それが一編の映画として<白いリボン>を魅惑的に作るのにどんな意味があるかは率直に分からない。

旧世代怪物の移転が始まる1914年が映画がとにかくスリラーの構造中で結局誰が犯人であるかどうかの問題を曖昧に処理すること、なので結論を開いておくことが先立って話したようにメッセージを全面化しようとするハネケの意図のためといおう。それなら自らを曖昧だと称したナレーションの内容のようにこの映画の話も曖昧なのか?別に話して色々な方向に開いているのか?違ったようだ。映画を見ながら(ハネケの意図とは別個で)犯人の存在がそれほど気にならなかった理由は各場面あるいは各家族のエピソードが特定事件を中心に何か穴が空いたまま秘密をかばってナレーティブを作っていくという印象が少なかったためだ。各場面らが解けないなぞで覆われていてこれらの連結でどんな緊張が感じられるというよりは場面内のアレゴリー、象徴、兆候と呼ばれるだけのものらが極めて明瞭だったり時には慣習的まで見えるということだ。ハネケが解答でないパズルにたけていた監督という時、 <白いリボン>がパズルならばそれは映画が結果的に犯人を明確に提示しなかったという点でそうするだけであって、各場面の美粧傾向はあるいは各家族のエピソードの含意が曖昧さを抱いているという意ではないという言葉だ。かえってこれらは自主的に特別な余剰なしに十分に意味化されていて情緒的にも整頓された感じだ。場面らの間の解消されない隙間を決定的な瞬間ごとに説明を通じて繋いてくれるナレーションの回想もどこか規定的だ。極めて主観的な感想という点に了解を求めるならば個人的にはそのような面で<白いリボン>の映画的興味深いということが半減すると感じた。それにもかかわらず、いくつかの場面らは凄じく見慣れなかったし解釈を待って私に話しかけた。その瞬間らに対して話す価値があるようだ。

厳格な牧師お父さんを置いた少年はささいなことで体罰にあった後腕に純粋を象徴する白いリボンが縛られる。さほど経過せず少年がまた登場する時彼は高い橋上の欄干を危険に歩いている。この姿を偶然にみた教師が追いかけて行って止めるとすぐに少年は答える。 "私を殺す機会を与えますよ。 "淡々とした少年の表情が恐ろしい。教師が"誰に?"と尋ねるとすぐに少年は"神に"と答える。なぜシニそれといって考えるかとの質問にも目一つびっくりしなくて沈黙した少年に教師がお父さんを揺れて、少年は突然恐ろしい顔でお父さんに話すなと哀願する。この村にすでに二度の事故(思考)が過ぎ去った後だ。子供は本当に死を待っていたことであろうか?自身の死でお父さんに復讐しようと思ったことだろうか?その行為をどのように読むべきか堪え難い。私に与えられたヒントはこの映画の背景が1913年というもの、映画も後ほど話すように1次世界大戦が起きる直前でありこの田舎共同体はその全面的な変化を控えて過去の慣習と価値をつかむために非正常的に努めているという事実だけだ。とにかくこの時期が重要だ。

エリック、ホップスボムは" 1914年以前に成長した人々には、1914年以前と以後があまりにも対照的なので彼ら中多くの人々が過去とのいかなる連続性も認めようとしなかった。平和は1914年以前を意味したし、1914年以後にはこれ以上平和という名前に値段するに値したのが現れなかった"として、1914年以後を破局の時代と称した。 <白いリボン>は単に旧世代と新しい世代の対立でなく、 19世紀文明の崩壊と20世紀新しい世代の出現が危険で不均衡的に共存する瞬間を見る。映画がその両者に断絶があると話す代わりに、旧世代の怪物がどのように新しい世代の怪物で転移するのか話しているということはまた指摘する必要もないだろう。この映画が位置した1913年という歴史的背景をあえて参照しなくても、キリスト教的倫理を暴力的な方式で守るこの共同体の姿は、かえってそのためにさらにシニすでに死んだ時代を証明する風景のように見える。神に殺す機会を与えると話す少年の奇異な発想と行動で出る神の存在を確認しようとする不安なジェスチャーを見る。そのジェスチャーにすでに神の無応答、あるいは神の無能が内在しているという点が無力さを抱かれる。そしてその場には神の死を隠す超自我としてのお父さんが入る。新しい世代の子供たちは自分たちの罪は分からないまま、いや、正確に話して罪がない罪の意識に捕われたまま、 『すでに常に『罪人の者らで救援の神はかなり以前死んだ。彼らは自らをどうして救援することができるだろうか。この場面を押さえ付ける絶望とやむを得ず予想される未来の不吉な重さを忘れにくい。

不在するシニ用意した悲しみシーンが直接的に言及されるまた他の場面がある。映画の後半、産婆の息子が暴行受けたまま木に縛られているのを人々が発見した時、そのそばに恐らく犯人が残して行ったようなメッセージがある。そのメッセージの句が背筋が寒くなる。 "私は嫉妬する神様はすなわち、この子供が罪を返すだろう"と書いている。子供が誰の罪を代わりに返したということか?その罪はどんな罪であろうか?誰も尋ねない罪の内容。罪が重要なことでなく罪の意識が重要で事後的に罪を作る犠牲提案が重要だ。メッセージを使った者、なので犯人が村の子供たちでも大人たちでもこの残酷な犠牲提案は出口を探すことができない程闇に駆け上がった村が切なくシーンを呼ぶ、しかしかえって神の不在を証明してしまう切迫して欺瞞的な儀礼だ。飛躍を押し切ってもしこのメッセージの主人がそれこそシーン彼自身だと話すことができるならば、その神はただ代価を望む悪のシーンだけのことだ。カメラが両目で血を流す子供の顔を映す時、私たちが待つ神はそちらにない。

ところでイ某でも暴力と不信の事件が過ぎ去った後、驚くべきことに瞬間の光を見た。その光がどんな意味なのか、そこに寄り添ってもかまわないのかまだ確信することはできない。だが、映画が世界のどんな可能性も残さないで推し進めてここでしばらく止まって考えるように見える時、心が動く。牧師の幼い息子がある日ケガした鳥を持って訪ねてきて育ててもかまわないのか許諾を受ける。牧師はその鳥に情を与えずに責任を持たなければならないと話す。しばらくして、牧師が育てた鳥篭の鳥が彼に反感を持った娘に殺害される。何日が過ぎて幼い息子は自身が大切に世話した鳥を鳥篭の中に入れて持ってくる。なぜそれを持ってきたというお父さんの質問に子供は"死んだ新しい代行です。悲しいと思いますので"と話して部屋を出て行く。その時大変頑固だった牧師の表情は今まで見られなかった感情のゆらゆらするということをじっと我慢している。この映画で唯一憎しみも、無関心でもない悲しみがバン場面だ。悲しみ、それは打者(タイプ)に対する共感であり穏健な感情だがこの場面の悲しみは瞬間映画を凍りつくようにする。この場面が神に救うことはできない救援の可能性を人間から見ていると話すのは行き過ぎた解釈であろう。ただしシニ死んだ時代の町角に詰まって怪物に成っていくこの可憐な子供たちにデマと疑い、死の主体でなく悲しみの主体になることができる席を少しの間でも用意したという事実に不思議に安堵を感じる。数多くの人々がハネケの冷静な鋭さに驚嘆しても、私はそこで特別な響きを受けることができなかった。少なくとも今私に<白いリボン>の質問と答はここに、この悲しみの席にある。

文:ナム・ダウン(映画评论家)2010.07.22
by kazem2 | 2010-07-23 09:02