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[チン・ジュングォンのアイコン]自分を捨てる男

☆CINE21



異名とフェルナンドぺアソ

主題紗羅馬具(Jose Saramago,1922~2010)の小説<リカルドゥレースの死亡研も>(1984)はペルナンドゥ ペソ(Fernando Pessoa,1888~1935)という人物の独特の人生を扱っている。 このポルトガルの作家は自分の名前だけでなく多数の他の名前で作品を発表したりした。 作家が自分の名前の代わりに他の名前を使う例はよくあるが、ペソアの例はこういう一般的場合と明確に区別される。 名前ら各々に互いに区別される固有な電気と人格と文体を付与したためだ。 一言で彼は自分自身をいくつかの人格で分化させたわけだ。

その名前らを彼は‘仮名’でなく‘異名’だと呼ぶ。 仮名(pseudonym)は私正体を隠して自分の主張をする時に使うか、自らの名前らは各々他の人格を持っているので異名(heteronym)だと呼ばなければならないということだ。 ここで私たちはアイデンティティの追求とは反対になる衝動を見る。 アイデンティティ(identity)が‘A=A’の同一率に執着するならば、異名(heteronym)はある人格内に寝る相異なった可能性らを現実化する。 それの格率はA=B=C=D=E、すなわち‘君は今のあなたでない世の中の他のすべての人になることができる’ということだ。

ペソ坊や使った異名は確認されたことだけでも75個を越える。 その中で最も広く知られたことは三つの名前、すなわちアルベルトゥカエイで(Alberto Caeiro),リカルドゥレース(Ricardo Reis),アルバル デ カンプス(Albaro de Campos)だ。 上で言及した紗羅馬具の作品はこの中でリカルドゥレースの人生を扱ったのだ。 興味深く紗羅馬具の小説でレースはペソアボだ1年後に死ぬ。 自分が自分より遅く死ぬわけだ。 ペソアの死亡消息を聞いてポルトガルに渡っていったレースは1年後ペソアの幽霊について彼の墓に共に行く。

三つの人格と世の中のすべての夢

野原ペソ分かる異名ら各々に電気(biography)を付与した。 彼が最初に使った異名‘アルベルトゥカエイで’は1889年4月16日リスボンで生まれた。 早くお父さんを失って未亡人の母の下で小学校4学年まで教育を受けた後、ヒバ縁朱螺呼ばれる田舎で牧童で過ごして<歯磨きは人々><愛に陥った牧童>などの電源詩を書く。 1915年故郷リスボンに戻るか、まだ数ヶ月も過ぎなくて肺結核にかかって26才の若い年齢で死亡する。 この教育を受けなかった天才の作品らは事後に<アルベルトゥカエイで詩全集>’で発刊される。

紗羅馬具小説の主人公になった‘リカルドゥレース’は1887年9月15日ポルト出生で、ゼスイット教団の学校で集中的な苦戦教育を受けた後医科大学に進学する。 イ医師容認はオラティウスを連想させる文体で詩を書いたし、批評にも手をつけて自分が慕う牧童容認アルベルトゥカーにイロに関する文を残すこともした。 超党派であった彼はポルトガルの王政が崩れるとすぐに1919年ブラジルで住みかを移す。 死亡沿道は確実でないが、紗羅馬具は彼の死亡沿道をペソ坊や死んだ次の年の1936年に設定した。

アルバルのにカンプスは1890年10月15日田平で出生した。 高等学校を卒業した後スコットランドに渡っていって朝鮮共学(工学)を勉強した後、航海術で専攻を変えてグラスゴーで航海士で生活する。 人生の無意味さに退屈さを感じたこの頽廃主義者は冒険を追って極東地方に旅行に出発する。 旅行で帰ってきた彼は完全に違った人になって、産業化と科学技術の力を称賛する未来主義的傾向の詩を書く。 特に機械と石炭と鋼鉄に対する彼の執着にはエロチックな側面がある。 1922年以後英国に移住. 死亡沿道は知られていない。

三つの電気はまた、三つの世界観を含蓄する。 牧童容認カエイロは世界を精神でなく肉眼で見る。 現象学で話す判断中止というだろうか? 彼は質問を投げないで世界をありのまま受け入れる。 世界を眺める野性的見解. その中の全てのものに対する無邪気な畏敬. ここに彼の独創性がある。 世の中に対する一切の精神的解釈、一切の文学的加工を拒否するので(に)彼の詩は自然に反詩の傾向を帯びる。 “私は野望もなくて、欲望もない。 容認になるのは私の野望でない。 それはただ単独で存在する私の方式だけのことだ。”

医師時のレースは師匠カエイロを見習って世の中に疑問を提起しない。 ‘人生を遠くに離れて見ろ。 絶対にそこに問いを投げるな。 それが君に言うことは何もない。’教育を受けることが出来ないカーにイロとは違いレースはこういう態度をエピキュロスの哲学的快楽主義まで引き上げる。 “髪の毛に富は新鮮な風を感じて、太陽が木の葉の上で強烈に光る時に、私はこれ以上要求することがない。 運命が私に許諾すること中でこのように無知の瞬間に感覚的に通り過ぎる人生よりより良いのがあるか?”

エンジニア容認アルバルのにカンプスは激情的な性格の所有者だ。 彼の人格の中には二つの対立する衝動が入っている。 一つは全てのものをすべての方式で感じたい衝動で、他の一つはそうしてみてもその全てのものが結局つまらないというはかなさの感じだ。 彼の性情は絶えずこの対立する二つの極端の間を激烈に行き来する。 もちろんその時ごとに彼の詩世界やはり変わる。 “私は何でもない。 私はそのどんなものもなりたくない。 私はどんなことがなることを願うことはできない。 だが、私は私の中に世の中のすべての夢らをみな持っている。”

存在のすべての可能性を実現できる
三つの人格はもちろんペソ自身の中に入っている指向らの発現であろう。 二才の名前の他にペソ分かる自分の名前(orthonym)で文を書いた。 興味深いのはこの‘ペソ自身’が事実は彼が使うまた他の異名(heteronym)に過ぎないという点だ。 換言すれば彼が‘ペソ’という名前で文を書く時さえそのペソ分かる現実のペソアとは区別される。 ‘ペソ自身’は残り三つの名前のように彼の一側面だけを実現した虚構の人物だけのことだ。 “容認は偽造犯だ。 演技にたけていた彼はさらに自分が本当に感じる苦痛までも偽造する。”

これはポルヘスの短編を連想させる。 ここで彼はメタ的観点に上がって自身を1人称と3人称(‘ポルヘスと私’)で二重化する。 “何年か前彼から抜け出したくて私は近郊の神話らから時間と永遠性の遊びで関心を移した。 だが、その遊びらも今はポルヘスのことになったので私は違うものらを想像しなければならない。 私の人生は結局飛行だ。 私は全てのものをなくして、全てのものは忘却、あるいは彼に帰属する。”短編は簡略だが非常に印象的な文章で終わる。 “この文をその二つのうち誰が使ったのか分からない。”

‘アイデンティティ’は私を一つの可能性に縛っておいて他のすべての可能性らを抑圧する。 反面、‘異名’は自我を多重化して存在のすべての可能性ら(時には互いに矛盾する)を実現しようとする。 実名(orthonym)さえ異名(heteronym)で使う時、遊びはより一層急進的に変わる。 私がこれ以上私でない時‘近代的主体’の観念は解体されて、私たちはついにアイデンティティという近代的強迫から解放される。 私がこれ以上私でない時、私は私より遅く死ぬこともできる。 紗羅馬具が何故<リカルドゥレースの死亡年度>を小説の題名で選んだことはそのためであることだ。

文:チン・ジュングォン(文化評論家)2010.07.16

イラストレーション ジョンウォンギョ
by kazem2 | 2010-07-17 20:02