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[電影ゲクジャン]自身の声に魅惑されたナルシズム

☆CINE21
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ジャンルという監獄に閉じ込められた<破壊された男> <悪い奴がさらに良く寝る> <キムポンナム殺人事件の転末>

陳腐な分析方法を借りて話すならば、相当なジャンル的洗練美を成就したにもかかわらず最近韓国映画の中ではジャンルに対する一種の物神崇拝傾向が見える。クォンヨンチョルの<悪い奴がさらに良く寝る>きて愚民号の<破壊された男> 、カンヌ映画祭注目するほどの視線にも招請されたチャンチョル随意(獣医) <キムポンナム殺人事件の転末>はジャンルを扱う方法的多技性と意識変化を瞭然に観察運がある事例らだ。これら映画を一覧しながら新人監督らのジャンル傾倒現象中にどんな決定的な動機があると考えることになった。ジャンルを料理する監督の選択がどれくらい創造的かという問題は一時台大衆映画の潜在力と関連して大きい意味がある。 2000年代以後韓国の大衆映画がジャンルとの競うことを通じて進展を繰り返してきたこと(パク・チャヌクとポン・ジュノ、リュ・スンワン、チェ・ドンフン、ナ・ホンジン)を思い出すならばより一層そうである。上の三映画は多彩に変化するジャンル映画の躍動性を現実態と潜在胎衣二つの側面で見回すようにする。ジャンルとの対決を夢見る監督はその属性上ジャンルが提供する快楽の終始一貫しているということを維持しながらもそれから何気なく脱走しようとする欲望を一体に所持している。こういう理由にニューフェースの出現はすでに蓄積された慣習の上に加える新しい開拓、予想可能な期待水準を越える拡張された地平を占うようにする。このようなうっそうとした新生の欲望に照らしてジャンルに対する物神化という最新の傾向を見回す必要があるようだ。

フェティシズムの衝動<悪い奴がさらに良く寝る> (以下<悪い奴> )のクォン・ヨンチョルはジャンルフェティシズムの衝動を隠すそぶりがない。黒沢明の評判作で題名を借りてきたこの映画は底辺人生の支離滅裂と不運を出口がない泥沼戦で描写することでも巡行と逆行を繰り返す時間構造を酔っぱらった叙事戦略はクエンティンタランティーノの<貯水池の犬ら>を参照している。主人公ユン・ソン(キム・フンス)が被ひさごをかぶってよろよろする導入部自動車事故場面は<貯水池の犬ら>の初めての場面に捧げるオマージュで、互いに財物を奪い取るために血眼になった三人のの友人の絡み合う関係につながる食物連鎖やはりタランティーノに対する過剰同一視を見せる。できるだけ生きる劇中三流人生らが偉業を決行する重大な瞬間黒色シュートでおしゃれしようとするようにジャンル規範に対する物神的同一視で帰結されるこの意図的虚栄期は自らをジャンル中に閉じ込めようとする欲望と見えるほどだ。

ジャンル映画に全面的な愛情を表明するクォン・ヨンチョル監督はジャンルと交渉したり対決するよりジャンル慣習に対する同一視の方式を選ぶ。これは正面からそれに対抗することによって映画の内的動力を求めるその他の接近法とは違った態度で見えるが、 <悪い奴>の画面要素運用とミジャンセンで確認されるジャンルフェティシズムの跡からこれを類推することができる。ある空間を多数で分ける画面分割や加速编集、ジャンプカット、空間のわい曲を極大化するワイドアングル画面は形式的脈絡を持っているというよりスタイル上で確立されたジャンルのクルリセに近い。愛嬌水準を越える<悪い奴>のジャンル崇拝兆候は叙事で確認される。まるでジャンルキャラクターに対する物神化としても良いこの映画の人物構成が問題視されるのは叙事の密度とそれが反目関係を形成するためだ。

幼い二人の弟(妹)を保管しながらカナダ移民を準備する青年ユンソンと芸能人になるために東奔西走する妹海上警察(チョアン) 、刑務所に収監中であるお父さん、多血質ポルノ俳優の友人ジョンギル(オ·テギョン) 、詐欺師気質が多いつばめの友人英祖(ソジャンウォン) 、そしてエロビデオプロダクション社長であり前職贓物親父のイ監督(チェ・ドンムン)が話を引っ張っていく。この多彩できらびやかなキャラクターの面目(容貌)は犯罪ヌアルの人物構成に従うが、彼らの闊達な行動半径に比べて各人物らを繋いてくれる連結のひもは緩い。 <シネ21 > 760号でキム・ヨンジン教授が指摘したようにこれは'現実の気勢を表わしたことというよりはジャンル映画の慣習に従おうとする意図の産物と見える。だが、映画の中では体系化されたジャンル慣習を消費するという快楽がなかなか生じない。それは常套化されたジャンルの慣習が叙事と照応できないながら胚胎した異物感に近い。 <悪い奴>の叙事はあたかも見本を選んで出した陳列台のように典型的な挫折とあきらめの人物らを一ヶ所に集めておいて彼らを結びつける話を構想した感じまで与える。根源を分からない実存的破壊衝動に引きずられて銃を取って横行する青年たちの無妄ハムと自虐的な破滅でしこりができた話はきちんと積もる感情の蓄積なしに表面の上で飛躍する。

ジャンル慣習に対する物神崇拝の兆候と見えるこういう特徴らは叙事要素らのあいだの緊密な連結の問題( <破壊された男>きて対照される側面)とみるより叙事構造の不在という側面で話されることができる。もちろん犯罪ジャンルが閉じられた世界の叙事という点でこのような飛躍とクルリセはジャンル中である程度容認されたことといえる。すでに構成された世界を屏風として作られるという点で、ジャンル叙事はモデル化されたキャラクターらの反復再生産に一抹のためらいもない。したがってそれらに対する時私たちが注目することは叙事空間の穴と飛躍でなく話を構成する個別要素らのあいだの内的関係だ。

ジャンル複製時代の映画そのような意味で愚民号の<破壊された男>はそれほど悪くない。封切り全(前)この映画に下された事前評価らは苛酷な側面がなくはないが、多くの人々が指摘したように<追撃者>きて<そいつ声> <チェインジルリン>等一連の誘拐映画らを積極的に参照した安易なかけはぎをすることの跡にもかかわらず<破壊された男>はナレーティブ構成要素らが闊達な相互作用で編集されながら叙事を前進させるという点で差別的だ。火を見るより明らかなオリジナリティーの不在、作為的な構成、絶望と戦慄で汚された残酷な世界を描写するために動員されたごり押し設定が頻発するが最後まで話をついて行くようにさせる演出の腕力が感じられる。極端化された暴力描写や粗雑なギガ去らない氾濫する感情ら、事件の糸口に対する非論理的推定、なじむ経路を逆らって踏んで行くドラマの陳腐さやはり犯罪ジャンルの閉じられた構造という次元で致命的な欠陥で見ることは大変なためだ。

しかしいくつかの評価するほどの地点にもかかわらず<破壊された男>やはり創造的ジャンル応用の事例と下記には躊躇される。 <悪い奴>で明確だった叙事の突出と飛躍はここでも確認されるがかえってこの映画の過ちは大衆の武班成績の期待と好みに便乗するために開かれたジャンルが行うことができる大胆な冒険を回避するというところにある。叙事論理の貧しさより問題はキャラクターや情況描写の極端性なのに、堅実な牧師で崩れ落ちたいかさま師に変わる駐英数(キム・ミョンミン)の進化とか高邁な好みのクラシックマニアと殺人鬼を行き来するチェ・ビョンチョル(オム・ギジュン)の性格化はたやすくは同意できる隈を探すことはできない。ナレーティブ展開に必要な要素だけ要約して要約提示する方法論をチュィテカンこの映画の叙事戦略でジェットコースターに乗るキャラクター設定は軽くない欠陥と見える。娘が死んだと考えるの8年の間駐英数に険悪な人生の行状記に対する描写は遠慮なく省略される。あたかも不条理な運命に捕われた人間の可憐だということを試験する神の視線を下絵に行ったように流れる序盤部進行が中盤以後ぶうっと浮かび上がってしまうのはこういう理由でだ。一人の人間の波乱が多い生涯を集約的に提示するためにでなければこれは解決されない余剰に残るだけだ。

興味深いのは<破壊された男>が最も深さ参照しているナ・ホンジンの<追撃者>でもこれと類似の形態の余剰が発見されるという点だ。例えば緊迫した追撃戦の渦中に割り込むソウル市長のエピソードや殺人魔チ・ヨンミン(ハ・ジョンウ)の狂気を僻地に描いたグロテスクある絵と結びつける大きな課題などがそうである。 <追撃者>でこういう欠陥が目立たなかった理由は意味のある場面演出と事件の要約的な提示を迫力感あるように交差していきながら能率と速度を獲得する非常な調節能力のためだ。文体の速度感という側面で<破壊された男>道(ド)細心に努力した跡が見られるが一日がまだならない時間に暗い現実に対する悲哀と無妄ハムを引き出す<追撃者>の情緒的喚起力に匹敵することができない。

自己告白のナルシシズム委の二つの映画に比べて<キムポンナム殺人事件の転末> (以下<キムポンナム> )は少し違った層上に置かれている。 <キムポンナム>は計画されたジャンルの上から出発した話とみるよりテキストに対する自意識がジャンルの上に働かせた話という点で区別される。人里離れた島無道を背景に繰り広げられる血なまぐさいにおいがする殺人劇を扱った<キムポンナム>は制度化された原始社会の暴力性で来る恐怖と他人の不幸に冷淡な人間の利器が引き起こした不安を巧妙に引き続き付けて映画の骨組みを完成している。血の色で覆いかぶさった狂乱と殺戮の世界に対する縮図を小さい島の村中に描き出しながら、 <キムポンナム>は野生の空気が掌握した孤立になった島で広がる背筋が寒くなった生存ゲームを経由して韓国恐怖映画に固有な怨恨の複数劇で履行している。皆に迫害を受けた無ミミズ田舎女性が怨女に化ける中盤以後映画は古語的再現のパレードで表情を変える。その殺風景なイメージの衝撃せいでハード古語恐怖映画の途上的快感に陶酔したジャンル演出家の冒険で見られるが<キムポンナム>はジャンルに対する崇拝より冷酷な世界の論理によって抹消された人間性というテーマに到達するために原始的暴力を鮮明に展示する側に該当する。

なめらかなジャンル演出家の腕前がよい作品ということはできないこの映画やはり叙事の飛躍と表現首位にあっての過剰が目立つ。一人の人間に対する動物的衝動に近いこの映画の苛虐的表現らにさっさと同意することは大変だ。獣と異なることなく描写される島の男たちでも苦しい程屈従の鎖を抜け出すことができないポンナム(ソ・ヨンヒ)のうぶなことはたびたび話す言葉を忘れるようにさせる。素朴な犠牲者イメージを極端に押し通したあげく冷酷な怨恨の化身に化けるポンナムのキャラクター変化もしたがって飛躍的だ。それでも重要な場面ごとに極端なモンタージュを楽しんで使うチャンチョル数はきらびやかで速度感あふれる編集でイメージの密度を飽和状態で押し通したり、たびたび不安定なアングルと極端な明暗の対応を通じて表現主義的な緊張を作るのに成功する。何より認めるほかはない<キムポンナム>の成就は叙事の爆発地点に到達するまで根気あるようにジャンル慣習の作動を留保させるという点だ。徐々に熱するようになるオンドルの火のようにそれとなく感情の温度を高めながらついに沸騰点に達して懐の中にかくされたあいくちを取り出す方式だ。行き過ぎた自意識の足でためなのか共感の幅を狭める描写らが発見されるが新しいジャンル的言及の可能性という側面ではこちらがさらに興味深い。

既成ジャンルに対する過剰同一視の上に働かせたジャンルフェティシズムの傾向は肯定的な側面より否定的な側面が多い。去る10年間相当な幅に変貌してきたジャンル映画の進展を見せることができないという点で憂慮されるところがなくはない。ジャンル映画はなぜ楽しむに足るか?という質問に対する根源的な返事を留保したままジャンル自体がナルシシズムの肉体になったためだ。相対的に豊かな好みの深さをそこまで追いつくことができない浅い適応力が表わしたこのような現象はジャンルの快楽を担保できない。コピーでもフェティシズムでもオマージュでもジャンルシステム中で模倣と複製は逆らうことはできない運命だ。憂えるのはジャンルの慣習が再生する間その反省的エネルギーは順次消耗しているという点だ。明瞭なジャンルの規範が存在するならばその上に新しい養殖を重ねて負わせるのはそんなに大きい問題にならない。

自分の模倣に進入したジャンル監督らの告白的語調は一定の老衰の兆しまで見せている。この時、映画監督は新しい形式を探索する者でなく自らの声に魅惑された者のように見える。ジャンルという養殖もその規範の退嬰と共に会議の対象になる。今ジャンルに傾倒した大部分の若い監督らはこの会議の方法論を探せなかったりジャンルの真価を自身のことで受け付けられないまま消化不良にかかった俗流の印象を残す。ジャンル映画が新しい叙事と美学が生じる創造的キャンパスになることができるならばそれはすでに完成されたジャンル規則の完ぺきな再現だとかこれに対する逆思いつきによってジャンルとの正面対決に成功した時だ。これでもないあれでもない曖昧な姿勢を取るならばジャンルは創造的遊び場でなく抜け出してくるのが難しい監獄になりうる。

文:将兵院(ジャン・ビョンウォン) 2010.07.15
by kazem2 | 2010-07-16 20:19 | Comments(0)