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by kazem2
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男女を通じて眺めた<ハハハ>のホン・サンスの倫理

☆blog.naver.com.VIP試写会模様
☆cine21.com
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[全英客杯]私たちの、一番顔の恐怖と対面することができるだろうか

本一冊(<シネ21>第752)が皆ホン・サンス監督の世界に捧げた。 こういう状況で何か話を付け加えるためには勇気が必要だ。 <ハハハ>をみた大部分の人々はこの映画がホン・サンスの前作ら中で最も愉快だという共通した評を聞かせている。 数多く自問した。 私が変なのか? 私には悲しい映画だ。 <ハハハ>は暗くて悲しいことに悪いものがあると警告したが、仕方ない。 映画の中人物らが笑うと私も一緒に笑わなければならないことではない。 もちろん彼らがピエロのようになくことを隠して笑っているとその裏面を見なければならないと話すのはホン・サンスの世界に対する完ぺきな誤解であろう。 彼の映画は裏面を表わすために表面を犠牲にさせない。 <ハハハ>の人物らは笑いたい時笑う。 それが全部。 それなら私の感情はどこからくるのか。 映画の中聞慶(ムンギョン)(キム・サンギョン)の夢に登場した李舜臣将軍は“その目で見ろ。 それで力が自ずから出るだろう。 君の頭の中の他人の考えで見ずにあなた目を信じてはい目で見なさい”と話した。 勇気を出して‘私の目で見たこと’を信じるためにこの文を書く。

白黒写真の存在の理由は?
すでに知らされたように、清渓山(チョンゲサン)で会った監督聞慶(ムンギョン)と評論家昼食(ユ・ジュンサン)がマッコリ一杯に去年の夏、統営(トンヨン)で体験した記憶一断片ずつ分けることにしながら映画は始める。 二人は良かったし楽しかったことだけ話そうというのに意を共にする。 これから私たちが見るお話は過去のことなどでこの映画は回想の構造に進行されるという事実ぐらいは簡単に察することができる。 一般的に通用する回想の構造、すなわち叙事がある程度進行された後、現在の中(案)ではとうてい解けないなぞの根源を探すために過去で回る方式に私たちは慣れているが、ホン・サンスの映画を一方でも見た人らはそのような方式がホン・サンスのことはないことを知る。 すなわち私たちは彼がフラッシュバックを楽しんで使う監督ではなくて、使ってもそれがどんな真実を復旧するための手段ではないという点を何回も経験した(彼はデービッド ポドゥウェルとのインタビューで“記憶は疑問を残すということでなくちゃ、何が‘真実’なのかを判定するということではいけない”と話したことがある). ところで本来ここで当惑することはホン・サンスの映画に回想の構造が入ってきたという事実自体でなく、それが何の気迷いなしに映画の開始点に押込んだ感じを受ける時だ。 回想を始める現在の時点は白黒スチール写真で止まられていて、二人の男の活気ある声に呼ばれて出てきた統営(トンヨン)の記憶はカラーになった動画の世界だ。 その時までしても私はこの映画がスチール写真が映画の前と終わりをかばってその中(案)は過去の躍動感ある記憶で満たされる構造で成り立つことという予想をしていたところだった。 だが、聞慶(ムンギョン)の記憶一こまと昼食の記憶ある一部分の間にほとんど規則的に清渓山(チョンゲサン)の現在(相変らず声だけ生きているスチール写真)が割り込んで突然時間を止める時、前の当惑感は反復される。 もちろんこれは相当部分直感に基づくが、ホン・サンス映画では直感を説明するならばそれがいつも映画の構造(あるいは配列)と密着するというのを悟るのが重要だ。

だからまずこの直感から始めなければならないようだ。 回想の構造という(のは)いやそれを通じて呼ばれて出てきた記憶という(のは)結局現在に戻って現在を説明するためのことでなければならないという暗黙的な合意、この言葉が大層ならば記憶は基本的に現在を補充するためのものという考えが私たちにはいる。 ところでこの映画は変だ。 映画の開始点でもあり、過去の記憶らの間に反復挿入される現在がとても平たい。 白黒で停止した写真でいくら生き生きした声と酒杯ぶつかる軽快な声が流れ出ても、その声が写真に厚さを与えるようではない。 その現在はいっそそちらに存在しないという表現が似合うほど薄い。 過去の記憶を受けて豊かになるのを期待する現在はここにない。 人物らのナレーションが過去と現在を行き来してはいるけれど、二つの視空間が過去-現在につながるというよりは最初からそれぞれ違う次元に属しているような印象は単に白黒の停止画面とカラーの動画の衝突があたえる感じだけではないだろう。 後に続く記憶のドラマを耐えられるつもりがない、いや支えることができない程平たい開始点、あるいは過去が安着できない程薄い現在. 現在がこのように透明だが、過去がどこに、どのように帰ってくることができようか。 過去が帰ってくることができないならばそれを記憶だと呼ぶことができるだろうか。 いや、これらを過去と現在と呼ぶのが穏当なことはあっているか。 事実、こういう問いは<ハハハ>を観念的な映画で誤解するようにさせるようでちょっと迷われる面がある。 あるいはこの疑問らは結局死の談論中に入るほかはないのかも分からない。 だが、死は、いくら素敵な表現を持って付けて、いくら厚い層上を当てても人生より観念的だ。 死は人生より具体的になれない。 チョン・ソンイルはこの白黒写真らを“冥土で聞こえるような響き. 死の時間”という言葉で表現したが私は死という単語を経由しないでこの透明な膜、しかし過去を吸収しないではねて出す現在-白黒写真の存在の理由を映画で捜し出したい。

無邪気な恋人の最後の絵に対して広く始めたのでちょっと狭く入ってみようと思う。 ひとまずこの映画の配列は緩く繰り広げられたと評価された最近ホン・サンスの作品らに比べて固くなった感じがあるが、不思議に彼と別個で映画の中現在と過去あるいはその両者をつなぐ記憶は互いにからまらないで別に散らばっているという印象を与える。 この二種類相反した感じがどのように共存することができるだろうか。 私の考えにこれは映画の中で二人の男の現在と表象されるスチール写真の存在、そしてその写真が位置したあるいは位置しなかった席に対して考える時解けることができる問題だ。 回想の構造で成り立った映画等を見る時、私たちはずっと記憶の主体、なので中心になる時間の軸を探す。 あえて熱心に探す必要もなしでその主体と時間の軸は現在の中心にすでに明確に提示されるのが普通なのに、この映画やはり記憶の主体はスチール写真の中の聞慶(ムンギョン)と昼食(ユ・ジュンサン)だ。 彼らがお互いの過去の中にお互いが存在しているという事実を分からない無知な記憶の主体であっても、とにかく彼らが記憶する者という点だけは明確だ。 だが、これらが記憶の主体としてこれらのスチール写真が映画の中時間の軸ではないとの事実を感じる時問題が生ずる。 前でも言及したように、映画の中でこの停止した写真らが具体的な経験らの軸になるには、あるいは何かの中心の席を耐えるには言い換えるが、とても平たい。 ホン・サンス式で話すならば構想を耐えられることはできない過度な抽象といわなければならないだろうか。 それならこの映画の時間の軸はどこにいるのか?今はないというのが私の判断だ。 何か記憶というほどの事件、あるいは事件というほどの記憶らは明らかにあるが、それらに時間性を付与するのが難しいおかしな状況が広がることだ。 それでこの状況はどこにもしばられない充満するということとそのためにできるほかはない不安感を同時に抱いている。

もちろん<ハハハ>を見て次の通り話すこともできる。 ‘過去は活気に動く。 現在はその場に止まってしまった。 過去が如何に生きていても結局現在中に入ってくることはできないことを映画は見せる。 その時過去の生々しいことは結局は思い出になる感情でそれは結局私たちにそこで死を見ろとの要求だ。’だが、ますますホン・サンスの映画は精悍席の言葉通り今、幸せになるために努めようと話す側であって、どうせ感情は死を内包すると話す側ではない。 それでは、このように尋ねるのはどうなのか. ‘動く過去と停止した現在で片方は幻想で片方は実在ではないだろうか。 片方はゆでて片方は死ではないか。 この時、どちら側が本物であろうか。’しかしホン・サンスは色々な評者らがすでに指摘したように、偽計を否定する。 彼の映画で夢と現実はいつも同等な位置にある。 答が決まっているこういう考えをあえて言及した理由は、彼がいくら偽計を否定するといっても、一つが違う一つを抱きしめることはできないだろうか、訊ねたいためだ。 過去と現在が、生と死が、この映画を置いて具体的に言ってみれば統営(トンヨン)の動く記憶と清渓山(チョンゲサン)の停止した写真が、統営(トンヨン)の昼食と清渓山(チョンゲサン)の昼食が、どんな方法ででも一つが違う一つを抱きしめるのは可能でないだろうか。 もし映画がそれを見せさえすればそこで慰安を得たかった。

ところで私が望むこととは全く違う次元に思うことが出来ない響きがあった。 もちろんその響きは慰安とはちょっと違った種類のことだ。 映画の最後の場面で演奏(イェ・ジウォン)と昼食(ユ・ジュンサン)は他の人物らを全部統営(トンヨン)に残しておいて麗水(ヨス)行バスに上がる。 バスの中で昼食(ユ・ジュンサン)は自分が使った試み読んで、お互いの心に対するあらゆる美しい言葉を分けてこのように念を押す。 “何も分からないが私たちが愛することだけ分かれば充分で。”一時のきらびやかな美しさだと思ってもう清渓山(チョンゲサン)二人の男のスチール写真に帰る準備をした途端、演奏(イェ・ジウォン)と昼食(ユ・ジュンサン)の姿の上で二人の男の最後のナレーションだけ流れて映画は突然終わってしまう。 堪え難い。 この結末は現在へ向かったのか、過去へ向かったのか。 あるいはどこに開かれたり閉じられたのか。 それは<パムグァナッ>でみた閉鎖された結末も、<よく知りもしないながら>で感じた開かれた結末とも違う。 現在とも、過去とも規定できない時間の中に自分の席を探せない、しかし自身の席を探せない時だけそのように生きていることができる瞬間. この無邪気な恋人の最後の絵は他の存在らが皆時間の中に散って消えても、ただお互いの心にだけ寄り添ってそこで全て耐え忍ぶ印象がある。 耐え忍ぶ。 私は上でこの映画の構造的配列が最近のホン・サンス映画に比べて何かこまかくなった感じがあるといったし、その理由を互いに違う視空間的次元の反復交差のためにだけ感じた。 なので配列の問題を表面的だとか形式的な次元に限定して考えたことだが、最後の場面に到達して知ることになった。 <ハハハ>の構造を丈夫にさせた窮極の要因はすぐにこの最後の場面中にある。 いや、正確に話してその場面がその場に置かれられたというところにある。 時間の偽計も否定して時間の一貫した軸と秩序にも関心がないが、その時間を持ちこたえる人間の姿だけは捕まえること。 それは希望でもなくて、確実に闇と明るいことで説明できることでもないが、その場になければならないことだ。

一番顔(入る)を忘れるがモタゲンネサシル、彼と類似の感じの場面を統営(トンヨン)でも見た。 これまた演奏(イェ・ジウォン)と昼食(ユ・ジュンサン)の場面なのに、風雨が強く打ち下ろすある日二人は一つの傘下. お互いのからだを必ず抱きしめて海を眺める。 そしてその上に流れる昼食のナレーションは大体こうだ. “朝その人といるのにとてもぴりっとして良かったよ。 感覚がみなよみがえるようだった。”が自体だけでも十分に美しいが、すぐ次についてくる場面を見ればその配列の印象を忘れにくい。 演奏(イェ・ジウォン)と昼食(ユ・ジュンサ)が共に雨に当たる場面が出てきた後、今までの映画の構造を思い出させるならば清渓山(チョンゲサン)二人の男のスチール写真がついてくるのが合うが、映画はその過程を飛び越える(ここを基点にこの規則的な配列のリズムはこわれる). なので何の媒介の場面なしで、ソンオク(ムン・ソリ)がゆがんだ顔で大きな傘を持って豪雨をむかえる場面が突然つく。 この姿をカメラは必要以上で長く見つめる。 同じ統営(トンヨン)の雨、しかし恋人の親しい雨が降って女性単独で耐える豪雨. ホン・サンスは明らかにこれを可愛い感じに基づいた偶然な配列だと話すだろうが、二つの場面の衝突、あるいは連結があたえる印象は簡単に行き過ぎにくい。 二つの場面の興味はとても遠く離れているということか、でなければ結局一致するというのか。 よく分からない。

だが、映画に登場する数多くの姿中でもなぜよりによって上の場面らで心が動いたのかに対する理由は大まかだけれど分かるようだ。 映画の中昼食の表現を借りようとするなら“むなしいことが一つもない”一番顔、なのでそれを特定場面の一番顔といっても良くて、その中にある人物の一番顔といっても関係ない。 そこで私が感じてみたマンの顔を忘れることができないようだ。 ただし変なことは映画全体を顧みても、演奏(イェ・ジウォン)と昼食(ユ・ジュンサン)は二人一緒にいる時だけ彼らの一番顔が出てきてそれがいつも心をジーンとさせるが、ソンオク(ムン・ソリ)はそんなに孤独に単独で豪雨を耐える彼ゆがんだ場面だけで一番顔が突出してそれは彼女がパートナーらと共にした数多くの場面らでたやすくは感じられないということだ。 別に話して演奏(イェ・ジウォン)と昼食(ユ・ジュンサン)カップルを除いた他の人々は彼らがいくら一緒にいてもお互いにつく感じがなくて、聞慶(ムン・ギョン)が始終一貫念を押すように相手から“良いことだけ見ようと”とするようだが、何か十分に努めているようではない。 これらはなぜかケガする前に退くという表現を使いたくさせる。 ここでケガするというのは自分の破壊を押し切るという意味とは違ってかえって昼食(ユ・ジュンサン)の話をまた引いてくれば必死に自身に率直でなく見えるという意味に近い。 なぜそのように感じられるだろうか。

<よく知りもしないながら>で私たちはある女性のジーンとしたマンの顔を対面した記憶がある。 故順(コ・ヒョンジョン)は世の中の目でない自身の目で感じて経験する人同じだった。 それは彼女が結局本来の席に帰るとしても、あるいはその場を失うとしてもその恐れを抱きしめるほかはないことを自ら認めるように見えたためだ。 ここでホン・サンス映画の道徳と倫理の区分(道徳という(のは)善悪の判断基準だが、倫理はただ良いのと悪いことの基準として作動する)に対して思慮深く分析した精悍席の論旨を引いてきてもう少し押して進みたい。 倫理は制度や常套的慣習でない、個人的な直観を信じてそれを根拠に良いのを見ることであり、その観点でなら故順こそ人生の倫理を実践するために努める人だ。 ところで厳密だと考えてみよう。 ホン・サンスの映画で誰かの倫理を判断することは容易なことなのか。 故順の倫理が美しく見えた理由は、彼女が直観により行動したことを私たちがよく分かるためだからでなく(それが彼女の直観によったことを私たちはいったいどのように判断できるか),彼女が一人の男の妻で生きていながらも自身の欲望により選択したし、その結果を全て耐える準備をしているという点のためだった。 ちょっと軽薄に話せば、映画で彼女が結婚制度中に存在する人妻という事実は彼女が自律的であるために努める存在というお買いになる程重要だ。 なので彼女の選択を自律的だと見られるようにするのは彼女が属した他律的垣根だ。 この言葉が他律的垣根を受け入れるほかはないというあきらめで誤解されてはいけない。 私の行為がどんな常套性からも抜け出すために努力しているという確信を私に、あるいは相手に与えるのは結局私が立っている道徳的土台との関係からだ。 一番顔が一番顔で目立つ瞬間はそれが偏見と制度の汚れていることで囲まれている時だ。

道徳の中に住んでいると倫理がピリョヘホンサンスは一番顔を見るために努力しようと話すが、一番顔が純粋な本質で存在すると感じたり、人間がそれに完全に密着したり到達できるとも話さない。 <ハハハ>にはそれを見せる場面がある。 正号(キム・ガンウ)と昼食(ユ・ジュンサン)カップルが窓の外の乞食を見ながら、彼のうわべ(殻)でない実体を見ることができるのか、彼の汚いということをみな消しても相変らず乞食だと言えるのかなどに対するバカな論争を行った後続く場面は驚くべきだ。 実際にその乞食がとても威嚇的な姿で昼食(ユ・ジュンサン)カップルを追いかけてきて“汚い女!”と吐きだす姿なのに、映画全体の雰囲気上ぞっとして見慣れないむら(しみ)だ。 私の考えにこの場面でホン・サンスは単に打者(タイプ)の一番顔を見るために努力しようと話すのを越えてこのように反問するようだ。 問題は私たちが打者(タイプ)の一番顔を対面することができるととてもやさしいと考えるというところにあるのはでないか。 果たして私たちはこのマンの顔の恐怖を対面することができるだろうか。

ここで倫理と道徳が重要になるのは倫理が道徳から純潔に分離することができるという通念と幻想を知的になる時で、それを話す理由は、ホン・サンスの人物らが瞬間の充満感と直観に従う時、それを単に良いことだけ追う感傷主義、あるいは逸脱に対する稚気に充ちた欲望ぐらいで片付ける一連の見解らを警戒したいからだ。 私たちに倫理が切実なことは勇気が必要なことは私たちが道徳の中に住んでいるためだ。 組み合わせ作りを大切にする彼の映画に唯一妻帯者、人妻がたくさん登場して彼らの出会いがいつも偶然な旅行で成り立つという点はそのような脈絡で理解しなければならない。

もう<ハハハ>に帰らなければならない。 とにかく何が良いことで悪いことかを判断するためにはよく感じなければならない。 よく感じるためには透明になるべきなのに、その透明なことは良くて悪いのを区別できる基準を止めないで磨くことであり、それはその基準を囲んだ道徳あるいは常套的イメージと戦うことだ。 演奏(イェ・ジウォン)と昼食(ユ・ジュンサン)カップルを除いた残り人物らに私の心を与えるのが難しかった理由は恐らく彼らには好き嫌いはあるが、それを判断して実行するための過程、すなわち道徳中で倫理を見つめて渇望する激しさが不足するとみられたためであるようだ。 その話をこのように繰り返してもかまわないだろう。 この映画の最後の場面を満たす‘空の星’のような男と‘天使子’のような女は二人手をぎゅっと握って道徳中で倫理を見るために必死に持ちこたえている。 その瞬間が過去でも、現在でも、永遠だろうが、消えようが映画は意に介さないようだ。 ただし二人の恋人がそこ持ちこたえているように、映画やはりその場面がその場に必ずくるほかはないと信じるようだ。 その決断を考える時ごとに私は愉快などころか心がつぶれるほど悲しい。

文:ナム・ダウン(映画評論家)2010.05.20
☆映画を見ていないので この評論を理解することができませんが
この評論を一言で言えるような感想を持ってみたい^^
by kazem2 | 2010-05-23 07:31 | Comments(0)