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by kazem2
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映画「家を出た男たち」性関係が出てこない隠蔽されたクィオムルロ見ると

☆cine21.com
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「<家を出た男たち>は女性主義的というよりはクィオジョクだ. 性関係が出てこない隠蔽されたクィオムルロ、同性愛の意味をエロチックな関係に限定したりアイデンティティの問題で還元しないで、二者択一で対抗的な生の様式で拡張させるアワビ的な映画だ」。。。
アワビ的な映画ってどんな映画なんでしょ
面白い考察です
ますますこの映画を見たくなりますね





<映画読み取り>
家父長的結婚の権威にハイキックを!

妻が家出したのも知らずにいたずらのように離婚を宣言した男が後輩とともに妻を尋ね歩くどたばたのコメディ<家を出た男たち>は一見‘男たちどうし遊んで転んだ’状況を描いたバーディー無比だとか‘彼女を一つも知らずにいたよ’を悟るロードムービー成長塀ぐらいと見える。 しかし実は異性愛と結婚の価値を否認する隠蔽されたクィオヨンファで、性政治的アワビ性を持ったテキストだ。 これは問題的エンディングに限定された意味を針小棒大した結果ではない。 エンディングは突然に与えられた反転でなく、映画全体を貫く問題意識の論理的帰結であり鏡上だ。

男と男の曲濃い連帯‘電話受けないこと’遊びをした後輩が一年ぶりの先輩電話を受けて、明け方を走って江陵(カンヌン)まで共に行く。 先輩は離婚を決心して“気が合う友人と同行すること”のために彼を呼んだ。 二人は海辺で酒飲んで、女挟まって遊んであるベッドで寝ついて、夫婦関係相談して何日も一緒に妻を尋ね歩く。 しかも1人の女性の過去の恋人であり現在の夫の二人の男を何と呼ばなければならないだろうか?友人?ぞんざいな言葉といえば殴って上下区分する線後輩? XX洞で?

<生活の発見> <女は男の未来だ> <浜辺の女性>等ホン・サンス映画やこれを継承した<私は苦境に陥った>にも先後輩であり1人の女性を間に置いた二人の男が登場する。 それなら<家を出た男たち>道(ド)その我流か? 違う。 上の映画の男たちに比べて<家を出た男たち>の二人の男は愛憎と競争の葛藤がほとんど感じられない。 妻を探す旅行日程はそんなに切迫するとみられることもせず、二人は妻検索を口実でせっかく旅行を楽しむように見えたりもする。 中間に合流した妻他人との関係も懐かしい。 後輩は何日間同行しただけである遊郭と別れる時心より空しがる。 さらにエンディング クッキーにはこれ以上会うことがないと思ったこれらが遊郭に面会を行ってくすくす笑う。

それならこの映画は<ラジオ スター>私<楽しい人生>のように、女性を排除して男たちどうし同性社会的ユートピアを描いた映画か? 違う。 これらは“立ち次第加入して脱退する”同好会ではない。 1人の女性の過去の恋人と夫と兄さんで、彼女を媒介とした男たちの関係だ。 <家を出た男たち>は女性の交換を通じて媒介された男性間の不思議なきずなを見せる。 かつて<嫉妬は私の力>が異性愛三角関係中に隠蔽された男性間の羨望と同一視の欲望を凝視して、恋人と娘などの交換を通じて私的結束を固める男性同性社会の秘密を描き抜いたことがある。 <家を出た男たち>は全く違う方式で女性を媒介とした同性社会的欲望を漏洩して、異性愛規範主義の虚構性を暴露する。

ゲール ルビンはレビー-ストゥロスの研究を土台に近親相姦タブーと‘女性の交換’が社会契約の原形であることを明らかにした。 妹の交換を通じて共にハンティングをする義理兄弟-妹婿関係を結んで、族外婚を通じて集団間同盟を結ぶことだ。 進んでイブ セジウィクは異性愛関係は同性間リビードを分ける仮面であり、異性愛的社会取り引き網は男間の同性社会的連続体であることを明らかにする。 この時、同性社会的欲望は同性愛的欲望と混同されないために強力な同性愛嫌悪症を伴う。 <ラジオ スター>の男たちやはり同性愛で誤認されないための不正のジェスチャーを取る。 しかし‘家を出た男たち’は何の警戒心なしで、笑って楽しむ。 パンツだけ着てあるふとんの中で寝て、パンツを投げて詩シドク対ながらも同性愛的緊張を全く意識しない。 ‘小学生トリオ’という広報文句のように、これらは小学生、なので性的無関心岐路同性同じ年頃集団を形成する6~12才の学童期少年のように行動する。 興信所肩らは‘義理兄弟-妹婿’間という話に、これらを棒組で見て殴るが事実初対面だった。 しかしすぐ腕力と、共に警察署行って、酒場行って女誘って、のように無礼なやから仕事をしたら‘親しい’になってしまう。 それならこれら(かれら)の間を結ぶ神秘な媒介物の彼女はどこにあるのか?

男性同性社会的きずなが強調するほど女性の存在は微小になる。 彼女たちは自発的な取り引き対象になったり、異性愛的取り引き網の中で自身のアイデンティティを感じる。 誰の娘、誰の妹、誰の妻で自身を認識する。 時に彼女たちは男性らの間に広く知られる存在でだけ意味を持って、したがって男性による‘再現’だとか、‘症状’で存在する。 それで数多くの再現物で女性は‘分からない存在’で表象される。

彼女やはり過去の恋人、夫、兄さんの間でしん気楼のように広く知られる。 しかし女性らの間で実体の跡が感知される。 マダムは彼女を‘優しいルビー’と呼ぶ。 彼女は自殺試み直前にマダムに電話する程内面を共有した。 マダムはちょうど後輩に男を奪われて“女たちが死のうとする理由はすべて男のため”としながら泣き叫ぶが、なんだか(道理で)こちらのオリエンタリズム インテリアや子供を抱いて来た女お客さんはレズビアン的空間の雰囲気を作る。 こちらは夜には男たちの異性愛的欲望を充足させる酒場だが、昼間には異性愛的傷を共有した女たちが集まった占い所だ。 ネットワーク マーケティングの女は彼女を‘純粋な子’と話す。 組織に引き込んで代わりに借金をするようにしたが恨まなかったとし、彼女にお金を伝えて渡す。 貸した金を受け取るために彼女を探した兄さんよりさらに信実な関係と見える。 幼い時から友人のホン・クムソンは兄さんの妻でもあるが、彼女たち間に兄さんであり夫の存在は消している。 死を控えたホン・クムソン母娘と旅行をしながら、彼女の葬儀を行いながらも兄さんには連絡しない。 彼女は婚家のお金を盗む行為を通じて家父長的結婚の法を破壊して、友人の娘を自身の娘とすることによって異性愛的規範を越えて‘レズビアン連続体’を構成する。 映画は最後に行って彼女を見せる。 フレームの中に見えることはないけれど推論可能な空間の‘脱空間’に彼女が存在したことを明らかにすることだ。 これに対する映画の描写はファンタジー的なのに、これは監督が経験できないのを再現した限界のためでもあるが、本来フェミニズム主体がジェンダー化される空間の矛盾性のためでもある。

皆が家を出てしまった集英化の教訓を‘彼女を一つも知らずにいたよ’ぐらいで感じようとするなら、少なくとも彼女を分かると勘違いするほどの最小限の正常性が確保されなければならない。 しかし離婚宣言で始めた映画はこれらがどのようにつきあって、どのように結婚したし、どのように暮らしたかを推論する根拠を全く提供しない。 当時3年間恋愛した洞民は自殺試みやネットワーク マーケティング事実を全く分からなかったし、2000年から恋愛して3年間一緒に住んだ夫は過去はさておき離婚宣言に先立ちホン・クムソンと旅行した何日間の不在も知らなかった。 夫やはり宣言以前にすでに家に入らないでいたのだ。 すでに二人とも家を出た状態で離婚宣言や妻検索も名分に過ぎない手遅れになって騒ぐだった。 これでこれらの結婚は噂のように形骸化されて、結婚制度自体がうわべ(殻)に過ぎない虚構であることが暴露される。 家出した女探す男たちを描いた映画の題名が“家‘出て行った’女”でもなくて、“家‘出て行った’男たち”でもなくて、“家‘出てきた’男たち”に留意しよう。 ここで家は帰らなければならない根拠地ではない。 3人の男と2人の女、1人の子供、そして警察の妻まで全部家を‘出てきた’この映画で私家にいる人は舅姑と伯父だけだ。 これらは全部両親世代であり財産家だ。 映画でつかんだ両親たちの空間であり、両親は遺産で意味化される。

映画は恋愛と結婚など異性愛的関係を幻影のように対しながら男女全部同性社会的関係ではるかに幸せに描く。 映画は女性が媒介された男性同性社会的関係を同性愛的はばからなくあどけなく見せて、裏面に存在する女性主体を描く。 彼女たちは精神的、物質的困難を分けて哀悼と世話で結ばれた‘レズビアン連続体’を形成する。 映画は‘根本ない女を嫁に入れて何か災いを被るかもしれない’という理由で勢いいっぱいに権勢をふるう朝ドラマの中姑の恐怖を実現させることによって、家父長的結婚の権威を‘飴食べさせる’. 映画は異性愛が自然な本性でなく、女性の交換を通じて親族を構成して結婚を通じて私有財産を相続させようとする強制されたイデオロギーであることを暴露する。 <家を出た男たち>は女性主義的というよりはクィオジョクだ. 性関係が出てこない隠蔽されたクィオムルロ、同性愛の意味をエロチックな関係に限定したりアイデンティティの問題で還元しないで、二者択一で対抗的な生の様式で拡張させるアワビ的な映画だ。

文:黄塵米(映画コラムニスト)2010.05.06
by kazem2 | 2010-05-06 12:16