ANEMA E CORE


by kazem2
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30

[キム・ヘリの絵と影] 神聖な微笑を入れた手

☆cine21.com.Article




オグィストゥ ロダン,<大聖堂>(La Cathedrale),1908.

結婚式招待状に入れるイメージを薦めてくれという友人のチョンを聞いて直ちにオグィストゥ ロダンの<大聖堂>を思い出させた。 学生時代教科書で<大聖堂>を初めて接した後で永らく私はロダンが彫刻したのが祈祷のためにちょうど集められようとする誰かの両手だとなにげなく信じた。 最近に<大聖堂>のアーチがそれぞれ違ったからだに属した右手,姿勢で推し量って恐らく近く向かい合って線二人の手でなされたことを識別した。 接するようにある<大聖堂>の両手は,残った人生を共有することに決断した恋人にプレゼントするほどのイメージだ。 手の平全体を深くあわせるならば初めには満足でも時間が経つほど相手の触感が鈍くなり結局消えるだろう。 はなはだしくは汗が(身ごもる)しみこんで不快になるかも知れない。 手を握る行為で求愛を始めた恋人たちは結婚を通じてお互いのからだと魂をすみずみ探査した後,老年に早ければまた軽く手を握って散歩することになるだろう。

ロダンは手の偉大な鑑識者であり創造者であった。 一時彼の秘書であったライナーマリア・リルケは作業場の無数の手彫刻らを示して“どんな手は歩いていて,どんな手は寝ていて,どんな手は目覚めている”と描写した。 教会と聖堂の建築様式を深く探求したロダンが特別にこの作品を<大聖堂>で命名することにした決定は大変適切に見える。 卵一粒を握るほどの圧力も入らなかった関節が描く優雅なアーチ,その下宿っている均衡と謙虚,高揚感と限りない愛. それこそロダンが発見したゴシック様式が持った美しさの要諦ではなかったのだろうか。

偉大な芸術家のビジョンを持つことが出来ない平凡な私たちにも手は十分に神聖な機関だ。 手は頭脳とともに人間に神をまねる行為を許諾する。 指を集めれば事物を入れることができる小さい器になって,ぱっと開けば枝になって私たちを通過する世の中の風を感じさせる。 手はどんな身体部位よりはやく固まってしわになって老化を表わすが,終わらせる視力と聴力が離れた後にも私たちのそばに残って世の中のホームと節をだらっと紙するようにするだろう。 酒でも音楽でも私たちが何かに深く取った時他人の手を静かにつかみたい衝動を感じるのは,美しさを出迎えた瞬間聖所に入りたい本能の発露なのかも分からない。

情念が質料塊りの中でほとんど飛び出そうとするロダンの官能的な全身像らに比べて<大聖堂>は静かなことこの上ない。 しかし数多くのアマチュア写真家らがとってインターネットに載せた<大聖堂>の写真を見ていますとこの素朴な彫刻が多様なアングルと光の状態によりどれくらい相異なった歌を歌うのか知ることになる。 立派な建築物がそれほどまで<大聖堂>はすべての面を通じて呼吸する。 美術批評家ベルナール サンパヌィルルは,ロダンが人間の顔に微笑を彫刻したことがないと使った。 しかし<大聖堂>の手は明確に微笑を浮かべている。

文:キム・ヘリ2010.03.26
Commented by エリ at 2011-03-03 06:21 x
ロダンって人の名前、聞いた事ありますよ。
でも、何で有名になられた方なんでしょうか?
Commented by kazem2 at 2011-03-03 08:20
☆エリさん
まいど!

ロダンは彫刻家で「考える人」は有名だね

私もこれぐらいしか知らないんだけど

ウキぺディアを読んでみてね^^↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%80%E3%83%B3
by kazem2 | 2010-03-28 18:49 | Comments(2)