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[外信記者クラブ]ギャングスターエピック<黒砂会>

☆cine21.com
ギャングスターエピックとはギャングスター叙事詩、
フランシス・フォード・コッポラのギャングの大物とは「ゴッドファーザー」のことでしょうか



最近に私はトギボンの<黒砂会>(2005)と<黒砂会2>(2006)を見る機会があった。 映画は古色蒼然な香港組織チンピラ社会を見せる。 組織の年長者らが2年に一回ずつ会って新しい会長を選出する。 この過程は必然的に摩擦を起こすほかはない。 この映画らは去る十年間の香港映画中最高作で長らく記憶されるだろう。 トギボンは彼の監督経歴で多くのギャングスター映画を作ったがこの二作品でははるかに大きい何かを触ろうとする努力を見せる。 フランシス,フォード・コッポラの<大物>のようなギャングスターエピックを狙ったようだ。

ギャングスターエピックは普通のギャングスター映画とは違い,フィギュアスケーティングのトリプル-トリプルジャンプのように特別だと見ることができる。 閃光のように光ってとても映画的で多くのテクニックを使って完ぺきに抜き取るべきだ。 ギャングスターエピックは根本的に権力とその周囲に形成された複雑な関係性を扱う。 多くのキャラクターを扱ってギャングスターエピックは個別人物らの成功と没落だけでなく権力その自らのメカニズムを見せる。 どのように権力が獲得されて喪失になるのか,どのように売れて奪取されるのかなど. 必然的にこういう映画らは社会に向かって何か発言する。 政治映画も似た脈絡を持って作られる(オート フレミングほとんど<ワシントン政界>が思い浮かぶ). しかしギャングスターに対する映画は政治家に対する映画よりどんな面でもはるかに映画的だ。 ヌアール美学,残酷な暴力,ギャングスター社会を支配する不安定な規則(反対に一つの国の法はあまり軽くなかったことだ)は映画的な潜在性が高くて未来にもギャングスタージャンルはずっと生き残るだろうと考えることができる。

韓国で組織暴力団はイチャンドンの<緑色の魚>でチョ・ジンギュの<組織暴力妻>,ユハの<卑劣な通り>等多様なジャンル映画でなじむ人物で登場したことがある。 この中でいくつかの映画はとても優れた作品だがまだ韓国で正しくなされたギャングスターエピックは出てこなかった。 エピックの広く眺める圧倒的で冷たい視線とは違って韓国ギャングスター映画はとりわけ個人的視線で話を解いてきた。 この映画らは1人の主人公が危険なギャングスターの偽計関係という迷路を解決する時観客が主人公の運命をついて行くように作られた。 <黒砂会>はこれとは違い色々強いキャラクターを見せて私たちが誰の肩を持つかも知れないように放っておく。 映画が特定人物と同一視するのを拒否して次にどんなことが起きるのか予測できなく作っていく。 韓国ギャングスター映画で最もカリスマが強い人物が死ねばその映画は終わる。 しかし<黒砂会>で観客の主な関心は組織それ自体にあるので映画は続く。

二キボン監督が組織暴力団社会の内部を解剖するといえば,韓国監督らはもう少しメロドラマ的な本能で話を解いていく。 残酷な暴力,運命的な背信と劇的な逆転などが映画の結末で一定の悲劇的情緒を作り出す。 <黒砂会>きて<卑劣な通り>は表面では似ているように見えるが色々な面で完全に反対と考えることができる。 このパターンで最も遠く落ちて出てきた映画がキム・ジウン監督の変に内面的に省察的な映画<甘い人生>だ。 この映画だけがすべての面で<黒砂会>に匹敵するに値する。 しかしこの立派な映画さえエピックと呼ばれることはできない。 韓国監督らは明らかにギャングスターエピックを作ることができる才能と感性を持っている。 しかし私たちは果たして韓国ギャングスターエピックを見られることになるだろうか?

<黒砂会>きて<黒砂会2>が完ぺきな映画ではないが韓国監督らはこの映画を見て多くのことを学ぶはずだ。 そのような面で二編の映画すべて韓国で開封されないのは残念に違いない。

文:甘い時パケッ(koreanfilm.org運営者)2010.01.20
by kazem2 | 2010-01-20 13:03