ANEMA E CORE


by kazem2
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チョン・ソンイルの映画評論。。。死体を見よ,そして答えよ①

☆www.cine21.com
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恩平区(ウンピョング),鷹岩(ウンアム)2洞撤去場面を入れた<湖道>が要求すること

今年一年の間韓国映画のイメージが何だったのかと誰かが私に尋ねるならばそのまま簡単に家だと答えるだろう。 韓国映画を見る間私はずっとこの家に入って出てきてそのまままたあの家に入ると感じるほどであった。 先に三編の映画. 最も恐ろしい家. ホン・サンスの<よく知りもしなくて>. 映画監督旧慶南(キョンナム)(キム・テウ)は見慣れない提川(チェチョン)でする映画祭に参加して友人浮上(コン・ヒョンジン)に会う。 そして真夜中に彼の家を訪問する。 彼はおかしな妻維新(チョン・ユミ)と生きている。 この家は門の敷居を越える時ごとに時間をごちゃまぜで作り始める。 いくら前と後を問い詰めようとしても一時にイ某でも試みを瓦解させてどこまでが偽りでどこから錯覚なのか分からない魔術的状況に引っ張っていく。 ショットの間の接続という夢想. 言葉どおり物の怪に取りつかれた家. 最もおかしな家. パク・チャヌクの<コウモリ>. 神父上弦(ソン・ガンホ)は友人降雨(シン・ハギュン)の家を訪ねて行く。 私はこの映画を二度見たがいくら合わせてみても一層と2階の面積が一致しない。 この仮分数のつかんだことの倒れるようだ。 2階は過密にウグルゴリで一層は大部分空いている。 まったく上がる方法を分からない2階. 上がってきた後話の展開にしたがってあたかも自己増殖でもするように増える部屋ら. いったい2階にはいくつの部屋があるということだろうか? 話について展開するような廊下. ラ女史(’キム・ヘスク)は秘密を知っているだろうか? テジュ(キム・オクピン)がこの家から出て行きたがるのは当然のことだ。 最も淫らな家. ポン・ジュノの<マザー>. 昼間にもほとんど夜のように暗い家. ‘マザー’(キム・ヘジャ)は自分の家でふとんを展開して息子と一度したい心を告白できないだけだ。 残りは全部言い訳だ。 トジュン(ウォンビン)の部屋で真夜中に上着を脱いだ友人ジンテ(珍句)が歩き出して彼女を抱く時彼女が本当に抱いてくれることを願った人は誰であろうか? 2人の二重効果,あるいは錯覚効果. この時どちら側が幻想だと断定することができるだろうか? 後から顔を見ないで抱く時,トジュンと‘マザー’が何回でその体位を繰り返してふとんで抱く時,それで耐えることはできない視線を避けることができる方法を捜し出した時,違反の線を最後に防御するために残ったことは何だろうか? 睡眠と借りる。 無意識と幻想. 死とセックスは思ったよりはるかに近くある。 この淫らな幻想を渡らないで‘マザー’を説明することができるだろうか?

韓国映画の家らをセンガカダムルロン他の家もある。 また他の三編の映画らが扱う家. 例えばパク・チャノクの<坡州(パジュ)>. ウンモ(暑雨)の家に入って生きるチュソク(イ・ソンギュン). 彼はなぜ歓待受けることができないということだろうか? 同じ質問. なぜウンモは自分の家で主人でなくお客さんのように行動するということだろうか? ひょっとしてその家が歓待しない人はチュソクでなくウンモではないか? 時間は何も説明できない。 あるいはできない。 フラッシュバックでごちゃまぜになってしまった家. 消えて現れて現れて消える家. その次に爆発させてしまった家. その時本当に爆発させたことは何だったのだろうか? その渦中に進行される撤去. 家を壊すという問題. あるいは撤去用役(サービス)に身を置いた叙勲(ヤン・イクジュン). 内面の中の地獄と同じ二軒の家. 叙勲と演技(キム花費)の家. 家を壊せば幸せになりえるだろうか。 都市の変更でつぶれていく家. 追い出される人々. 家から追い出されればどこに住まなければならないだろうか。 ヤン・イクジュンの<便パリ>. 狂ってしまった弟(妹),あるいは神懸かりの弟(妹)を探して帰ってきた姉さんヒジン(ナム・サンミ)が向き合わなければならない家. アパートという家. その家の受傷した隣人たち. 利用主義<不信地獄>.

彼らが意図したことではないがこの映画らはやむを得ず家に関する事件を連想させる。 今年2009年1月20日ソウル,龍山区(ヨンサング),漢江路(ハンガンノ)2街にたてた5階商店街で明け方6時45分で8時30分間,せいぜい1時間45分目に撤去民5人と警察特攻隊1人が死んだし23名が負傷された。 家は私たちの時代の資本主義的戦線だ。 それは肉体で,人生であり,実際の現実だ。 全てのものはそこで始まって,始まらなければならなくて,そこでまた始まらなければならない。 家は人生の大きさでそれを奪取される時人生も盗み当てられるだろう。 家の専有と再専有に対する戦術を私たちは共有しなければならない。

なぜこの映画を無条件肯定したい行ってしたがって私は今ここに緊急に一編の映画を追加したい。 そのまま簡単に話せばこの映画は今年の発見であり最前線だ。 チョン・ジェフンのドキュメンタリー<湖道>はあたかもイ某でも秘密会議に近い幽霊らの難局を打開しなければならない方法を探すことでもするように状況を修正しようとする。 私はこの映画を無条件肯定したい。 韓国映画が建築的構造中に閉じ込められたように見える時ほとんどひたすら一人で<湖道>は全く違う地理的探査を始める。 私たちは互いに全く違う時代に住んでいるのではない。 それが<湖道>の宣言だ。 この映画を見るためにはどんな知識も必要ない。 そのまま同じ時代に同じ地理的町内で一緒に共存するという意識だけ整えていればそれで充分だ。 私たちは幻影ではない。 映画の題名<湖道>はソウル市,恩平区(ウンピョング),鷹岩(ウンアム)2洞の路地の名前だ。 英語の題名も‘ Hosu-Gil’だ。 これが路地の名前ではあるがこの町内には湖がない。 恐らく以前にはあっただろう。 いくらこの道に沿って行ってみても湖は出てこない。 以前にはあったがなくなったこと。 そしてこの映画は今はあるがなくなっていくことに関する映画だ。

<湖道>は簡単だが紹介するので(に)難しい映画だ。 それでシネマデジタルソウル シン・ウンシル氏の紹介が少し道ではあるが代わりに引用するつもりだ。 “昼間に出てきた半月が浮かび上がった空と山が見える町内には‘湖道’という名前がついた路地がある。 四季鳥がしきりになく声が絶えない町内にはプラカードがついている。 一方,用事見に家を立ち向かうおばさん,散歩する若者と少年少女ら,菜園を作る女性ら,飲む出てきたおばあさん,遊び場で遊ぶ子供たちと彼らを世話するママがあって,時にはパトカーが町内を行き来して,犬と猫も生きる。 ところである瞬間,町内の最後のあかりが消えてしまい,突然光が光るや空き家天地になってしまった町内を壊す轟音が聞こえてくる。 犬は餌を探してさ迷って,猫は死を迎える。 空き家では炎と煙が広まり始めたり,ブルドーザーと人夫らは水をかけながら町内をずっと壊す。 日光は強く光って,鳥も町内を離れる。” (シネマデジタルソウル2009カタログ,105ページ)

詩的な紹介の文章ら. <湖道>にはただ一言のセリフもなくて,ボイス オーバーナレーションもない。 もちろん遠くから声が聞こえるがその言葉が何の意味なのかはわかることはできない。 明らかに聞こえる声はただ町の入り口で犬作る声だけだ。 <湖道>の最後の字幕は次のようだ。 “この映画の撮影は2006年秋から2007年春まで,そして2008年2月26日,7月10日,2008年8月から11月までソウル市,恩平区(ウンピョング),鷹岩(ウンアム)2洞で成り立ちました。”

あたかもSF映画同じに見える理由は

<湖道>は2年の間撮影した映画だ。 それは短い時間でない。 この時この時間に対して私たちは注意を注がなければならない。 <湖道>は自分の運命を知っている映画だ。 チョン・ジェフンは趣味で自分が生きる町内をとって見たらある日突然再開発地球に決定されて人々が移住して空っぽの町内に一人で残ってこの映画を撮っているのではない。 この簡単なことこの上なく見える映画. しかし結果でなく過程を眺めて,状況に対するどんな防御能力もなしでする時非常に複雑に成り立ったことを悟ることができる。 “町内にある日からか黒い眼鏡をかけた人々が歩き回り始めました。 気分が悪くなりました。 それで撮影を始めましたよ。”(2009年11月7日観客との対話)もちろんこの話(言葉)は比喩だ。 この映画には黒い眼鏡をかけた人々がただハンショッも出てこない。 その時私はチョン・ジェフンの非オイル価格引き上げ的だった。 黒い眼鏡をかけた人々. ジャンル映画で悪党らをひと目で調べてみるために使うインデックス. あるいは共同体コミュニティに現れた見慣れない異邦人らを表現する時使う小道具コンベンション. 彼はなぜそのような比喩を使ったことだろうか?

チョン・ジェフンが撮影を始めた初日はいくらはやくてもソウル市,恩平区(ウンピョング),鷹岩(ウンアム)2洞が再開発地区に決定された後であろう。 言ってみれば行政的決定された後に始まった映画. ‘ポスト’としての映画. すでに映画が始まる前に結局離れなければならない決定の中で生きていく人々,その子供たち. もちろん映画はただ一度も彼らに尋ねたことがない。 もう少し正確にカメラは町内住民たちと接触しない。 あたかも見慣れない惑星にきて探査をするようなカメラ. あなたはこの映画が宇宙から不時着したように始めた初めての場面を考えなければならない。 私はしきりに<湖道>がSF映画のように見える。 チョン・ジェフンはいつも一定の距離ぐらい退いていて彼らとカメラの距離は彼らがする対話が聞こえない可聴領域外側に置かれている。 それで声は聞こえるのに言葉がない。 話の外側にある時対象は風景の一部になる。 望遠レンズで入れた人々はカメラのマイクロからとても遠く離れている。 チョン・ジェフンはカメラの距離感とほとんど同じマイクの使用を通じて見解と聴覚両者の距離感を一致させる。 そのように退いた時映画で残るものは動詞だけだ。 <湖道>はひたすら動詞らだけが存在する表面効果だけをついて行っている。 私たちは表面を見た後その中(案)の現実で作動する因果関係を問い質してこそこの映画中に入ることができる。

言ってみれば<湖道>を見て私を集中するようにさせた表面効果らのはい。 チョン・ジェフンは撤去を事件で扱わなかった。 彼はデモに関心がない。 まちがいなく反対する人々がいただろう。 誰かは行くところがなかっただろう。 だが<湖道>は静かに進行される。 町役場職員の姿は見られなくて(行政的作動)測量記事らの姿も登場しない(遂行的装置). もちろん全景らも現れない(事件の変化の要素). 先に最初,恩平区(ウンピョング),鷹岩(ウンアム)2洞は地方田舎にある閉鎖された町内ではない。 地下鉄3号線に乗って行けば鍾路(チョンノ)3街でまだ30分がかからない所に位置しているソウルの中の居住地域だ。 <湖道>で撤去工事が始まる前,なので始めた次の42分になる時までこの町内の生活をとった場面らで珍しいほど夫ら,あるいはお父さんらは見られない。 私は映画を見た後チョン・ジェフンに会った。 “この町内に出勤するように行ってとったのですか?”言ってみれば撮影を定めておいた時間帯があるかとの質問の迂回. 彼が答えた。 “いいえ,全(前)この町内に住んでとりました。”チョン・ジェフンは夫らが,あるいはお父さんらが通りに見える時間帯を避けてとった(またはそれを編集で使わなかった). その事実のためにあたかもこの町内が世の中で一時的に分離して出たように見えたためだ。 男たちは映画の後半部,この町内をたたきつぶす時はじめて登場する。 ところでこういう排除状態の進行はドキュメンタリーで不思議な決定だ。

戦術としてのハンドヘルド,この緊急だということその次二番目. <湖道>の字幕によれば映画は“2006年秋で2007年春まで。 そして2008年2月26日,7月10日,2008年8月から11月まで”とった。 この期間は春,夏,秋,冬,四季を全部入れたという意だ。 ところで不思議にあたかも恩平区(ウンピョング),鷹岩(ウンアム)2洞は天気の変化が全くない町内のように見える。 いつものどかに晴れたきれいな天気. ただ一度の雨も降らなくて,冬ずっとただ一度も雪が降らない。 いや,曇る天気さえない。 ここはカリフォルニアではない。 私たちはソウルで生きながらこのようにきれいな天気を見られる日が多くないという事実を知っている。 この話の傍点はソウルだ。 映画を撮って最も難しいことの中の一つはきれいな天気に設定すればそれを数日に分けてとる時ショットを結びつけることだ。 <湖道>はただ一日に設定したドキュメンタリーではない。 事件もなしでその町内の日常をとった。 場面の間の劇的な連結が必要なことではない。 だがこの町内の天気はいつもきれいに晴れているだけだ。 きれいな空. 雲さえない天気. ただし時々風が吹く。 ほとんど超現実主義的な状況.

<湖道>の初めての場面は昼間月が見える空だ。 昼間に月を見るとは。 その次にあたかもカメラはそこで墜落する何か追いかけるように地球に降りてくる。 いや,自身が墜落することなのかも分からない。 地球に降りてきた後からカメラは常に立ち止まってとっている。 宇宙船が故障したことだろうか? その場で横にファン(パン)をしたりあるいはチルトをすることもできるはずなのにそのようにしなかった。 ドキュメンタリーでそのようにしなかったという意は劇映画と根本的に違った意味がある。 二種類意. 劇映画はそのように人物を立たせておいたりでなければフレームを定めておいて同船を設計したという意だ。 他の意. ドキュメンタリーでひとまずカメラが書面それを動くつもりが全くないということは人物を追いかけて行くつもりがないという意だ。 それでもそこに美しい風景があることでもない。 その時私たちが見なければならないのは何か? 当然その場所に留まっている時間だ。 場所の感じ,時間の流れる。 大部分のドキュメンタリーが人物を追いかけて行くのに忙しくて事件を扱うのにぶらさがる間チョン・ジェフンは鷹岩(ウンアム)2洞を感じている。

チョン・ジェフンは<湖道>を三種類方式でとった。 一つはカメラが固定して立っている状態で他の一つは42分10秒以後,なので撤去‘以後’から手で持ってとったのだ。 しかしこの二つが対照的に見えはしない。 いや,いっそその二つの間の差を間違って感じたら,だと願っていると感じるほどであった。 恐らくチョン・ジェフンはすることさえできたとすれば残りも全部立ち止まって(ixed)とった(camera)ことだ。 ところで撤去‘以後’カメラが動き始める。 この時動く理由,あるいは手で持った理由は(恐らく)二つのうち一つ(起こること)だ。 まず美学的根拠. 前部の止まってはカメラはその町内の一部のように見える。 いや,どんな意味ではそのままその町内の視線のように見えたりもする。 あたかもそこ立っている古くなった建物が眺めているような感じる。 その次に撤去が始まるやカメラは自分が頼るところをなくしたように,自らの根拠を喪失したように揺れる。 漂流の状態. 自分が生きた場所が見慣れない空間になった時体験しなければならない故郷という地平の喪失. しかしこのように話す時人々と全く話さないマイクを説明するのが難しくなる。 その次実用的理由. デジタルカメラを持って撤去現場にただ一度でも行ってみた人ならば(何の理由で認知は分からないが)カメラを突きつけてまだ十分が過ぎなくて誰かに撮影を制止された経験があるだろう。 撤去現場は不思議に(当然にも?)あたかも事件現場のようにそれを隠そうとする。 あるいはその程度ならば運が良い場合でカメラを押収されたり身分を尋ねた後なぜここで撮影をしているかを説明できなければ申告にあうこともできる。 カメラを立たせておけば突然の衝突あるいは押収から逃げにくいだろう。 手で持ってとる時にだけ確保できる時間. その上<湖道>は大部分一人で撮影して進行される映画だ。 言ってみれば手で持たなければならない状況. 戦術としてのハンドヘルド. この緊急だ。 こわれてしまった平和. 静けさの後の危機感. あたかも停止したように進行されるこの映画で手で持ってとったという事実は私たちに<湖道>が含んでいる‘以後’状況を説明することだ。 オガワ・シンスケの有名なテーゼ. ドキュメンタリーでカメラを扱う手と足はその映画の世界観だ。 <湖道>はそれを実践する。 最後に残った方法は‘以前’場面の立ち止まったショットで突然インサートのように介入するズームの使用だ。 ここに対してはまた説明するだろう。

期待する事件は起きなくてチョン・ジェフンの最初の対象. 地球に降りてきたカメラが先に関心を傾けるのは虫と動く木の葉らだ。 そこにはまだ人が入れられなかった。 生きているものなど. 生きて動くものら. もちろんこの映画は自然を礼賛しようとするのではない。 サウンドはほとんど聞こえないで鷹岩(ウンアム)2洞の路地を見せるフレームらはあたかも<スチール ライフ>の構図に近い。 <湖道>はのような画面を一定に繰り返して繰り返して見せる。 どんな学習効果. 私たちはこの町内の風景をあたかもこちらで生きていく人のように受け入れなければならない。 この一定の間隔の進行には私たちが十分にその風景を見たと考える時まで待った後画面が変わる。 その中(案)に含まれた人生のリズム感. 町内の声らが非常に小さく録音された画面らは始めて4分40秒を過ぎてこそはじめてあたかも入り込むように明らかに聞こえる。 暮れていく夏,あるいはすでに始まった秋. 路地階段をただぼんやり眺める。 そのようにしばらく眺めればおばさんと少女が階段を歩いて降りてくる。 その二つの間は分からない。 なぜなら二人の間にどんな対話もないためだ。 その二つは過ぎ去ってチラッとカメラを見ることさえする。 だがチョン・ジェフンは意に介さない。 カメラはこの階段で人が過ぎ去るのを待ったのではない。 二人は偶然にその時間にここを過ぎ去ったしそのように彼らが過ぎ去ることを放っておく。 それでもこの二人を説明するつもりもない。 チョン・ジェフンに重要なのはこの時間を入れることだ。 この瞬間過ぎ行く二人はこの時間に木の葉を通り過ぎる風と同じ世の中というリズムの一部だ。 言ってみればこれが<湖道>を進行する方式だ。

だが<湖道>に関するどんな情報なしで映画を見始めるとしても,なので‘以後’撤去が始まる残酷な場面があるという事実を分からないとしても,あなたはこの映画で漂うおかしな不吉さが呼び起こす緊張感に捕われるだろう。 例えば何か一触即発の感じる。 このように静かで平和に見える風景. だが私たちは知っている。 ソウルで生きるということは毎日事件と向き合うことだ。 事件がないソウルの風景は私たちを緊張させる。 <湖道>は昼間の風景を見せて突然真夜中に飛び越えて入る。 どんな照明の助けもない撮影. ただ路地についた街灯,あるいは大部分火が消えた町内. 皆が深い眠りについている時映画一人で目覚めているのは大部分理由がある。 そこ何か待ってみなければならないものがあるためだ。 恐らくこの場面らはとても深い夜,ほとんど大部分が寝ついた夜まで待ってとったようだ。 なぜなら明かりをつけた家が殆どないためだ。 あたかも孤独な島のように火がついた家. だが私たちが期待する事件は起きない。

そこ今は生きない子供たちをキオカラグロミョンまた<湖道>は昼間時間に移る。 昨日と違わない一日. 二番目低いこの町内の小さい菜園で(何か)耕作するおばあさんとおじさんの姿だ。 この時カメラは突然ズームに近付く。 ちょっと突然で突然に感じられるズームは私たちに今カメラがどれくらい遠く離れたのかに対する物理的確認のように見える。 チョン・ジェフンはズームに近付いて何かよく見ようとする考えが最初からない。 菜園にあるおばあさんとおじさんに近付いて何を見せることもない。 だがこの路地を記憶しなければならない。 その次に二番目夜をむかえる。 前でみた夜場面と全く同じであることではないがしかし同じ態度を持って夜を明かす。 もちろんこの場面が夜を明かすのを見せるために永らくつけられたのではない。 しかしこの町内の静かな時間帯をとるために待たなければならないカメラは道理なしに夜を明かしただろう。 言ってみればその時間をとるために待って送る時間. 二つの時間. 待つ時間(ウイ厚さ). 撮影した時間(ウイ瞬間). しかし同じように私たちはここでどんな事件も見ることができない。 あるいは起きない。 どんな出現もない。 何を待つということだろうか。 いや,何を守るということだろうか。

その次にまた昼間. 同じリズムの反復. 遠くにおばあさん一人が歩いていっている。 ツエに頼ってかろうじて歩いていくほど不便(不快)な歩き方. そのように歩きながらも手に負えなくてしきりに他の片手では壁にもたれる程力に余った歩み. 見守ったカメラはその時突然動いておばあさんにズームインする。 私たちは背中で見ているからそのおばあさんの顔を知らない。 だが見るといって誰なのか知ることが出来るだろうか。 ズームに追いかけて行ったカメラは特別に何を見ようとするのではないのにかかわらずもう一度ズームインをする。

二度のズームイン. 過度に遠くからズームをしてさらに画面の質感にピクセルがにじみ出るのが見えるほどだ。 よく話す‘画面が強くこねるのは’距離まで近付く。 異例的な方法. まずチョン・ジェフンはおばあさん(ウイ行動や同船)をのぞき見するつもりがない。 おばあさんはただ歩いていっているだけだ。 そしてどこへ行くのか私たちは分からない。 したがって二握り(つまみ)は二つのうち一つだ。 このズームインは対象の方法を記憶させる記号だ。 同じ話の他の言葉. ここでは対象でなく対象を見るズームの方法を見なさいという意味だ。 あるいはこのような方法で見る対象は同一だという意味だ。 なぜならすべての対象をこういう方式で見るのではないためだ。 他の一つはほとんど立ち止まって進行されるショット間で作り出すリズム感だ。 このズームインは対象に近く近付くという感じがするどころかその画質のためにむしろ対象とカメラがどれくらい遠く離れているかを確認させてくれる。 しかしこの場面が<湖道>でどんな転換点を成し遂げるのではない。 映画はまた本来のリズムに帰る。 遊び場で寝ついたおばあさん. 子供たちの遊ぶ声. 同じ風景が反復される。 そして同じ構図が繰り返す。 私たちは画面の変化に対してますます敏感になる。 季節が変わっている。 おじいさんは厚い服を着たし木の葉らは紅葉した。 三回目あう夜場面はこの映画で最も不吉な夜だ。 夜道にあかりもなしで犬がほえている。 晴れる見知らぬ人を一番最初に調べてみる獣だ。 人でなく獣が先に大声を張り上げる時,今ここに入った見慣れない者に気を付けろとの警告だ。 見慣れない者ら. 彼らがますます近く近づいている。

また繰り返す昼間場面. 私たちがすでに見た階段道. 路地を上がってくる少女. 子供たちはたびたびカメラを見つめる。 かと言ってこういう目が合うということが映画と人物の間のどんな異化作用を呼び起こすことでもない。 いっそただそこにある木が視線を転じて眺めることでもするように互いに挨拶をするような親和感. その次に<湖道>で最もおかしなショットが登場する。 何度も反復される鷹岩(ウンアム)2洞の全景を遠くから眺めるロングショット場面が子供たちの顔とディゾルブなる。 教科書的にだけ話せばディゾルブは思い出の入口だとか(フラッシュバックの開始)二つの場所あるいは事件を連結する時使う。 だがここではそのどの側でもない。 その次に遊び場で走りまわる子供たちを近く近付いてとる。 ここでは望遠レンズで押さなかったということを見せることでもするように子供たちにカメラとの接触を許諾する。 子供たちはつくづくと眺めて順に近づいてカメラを触ったりもする。 あたかも記憶の召還とも同じ瞬間. 互いに違ったのを一つにまとめて共に考えるように要求する時,私はこのロングショットの家らが他でもないクローズアップの子供たちが生きる場所という考えをするようになる。 ロングショットとクローズアップの結び目. いっそ単一な結合. ショットで分けてその次に再結合. しかし二つのショットがディゾルブ形式を持って作り出す幽霊効果. 幽霊ら. そこ今は生きない子供たちを記憶しなければならない。
②につづく

文:チョン・ソンイル(映画評論家) 2010.01.08
by kazem2 | 2010-01-08 11:55