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[キム・ジウン] “極端な視聴覚的快感を感じてみなさい”

<良い奴,悪い奴,おかしな奴>の,キム・ジウン監督インタビュー
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-この頃何か夢見るか。

=夢見る時間がない。 数日間眠れなくなっている。

-何がそのように心配になるか。

=そのように大きく心配するのではないが,私がもっとすることがないだろうかと思って考える。 イ・ムンセ歌が思い出されて。 “このまま離れなければならないか~.” (笑い)





-VIP試写反応はどうだったか。

=見に来た人々が映画を作るのを知っている人らではないか。 たくさん驚くべきで入るハだよ。 これをどのようにとったか,CGか何だったらで。 例えば貴市場でチャンイ派と戦う時桃源(トウォン)(チョン・ウソン)が綱に乗ってぐるぐる回るのをカメラがチョチャガジァンナ. ところでそれを見て合成ではないかと尋ねることだ。 いや何の声するかとすればカメラが飛んで行ったよと尋ねる。 撮影監督がカメラ持ってワイアーにぶらさがって飛んだかけるのにね。 誰かその日出てきた話を含蓄的に整理したが,“このように純粋娯楽映画で狂気立ちこめたことは初めて見た”という言葉がそれだ。 とった当時私たちが臨んだ環境や精神状態に完全に一致する言葉だったよ。 私たちは娯楽映画を作ろうとしたものだがその当時を考える時狂気がなかったとすればとれないことだ。

-最も多く広く知られる場面は何だったか。

=後半部の大追撃シーンだ。 ホ・ジノ監督は“私は本来このように(胸が)走る人ではないが追撃戦を見るからちょうど走ったよ”としたよ。

-最も悪かった反応は。

=悪い話はほとんどしなかったようだが,大平原の追撃だった後が若干縫ったようにするといったよ。 私たちが一般モニター試写を一度もしなかったために記者試写やVIP試写をモニター試写と考えたし,これもまた観客と会う過程の中の一つと考えたのでそれを我慢してみなして後部分を若干取り出した。

-どこを編集したことなのか。

=昨夜(7月8日)に編集をしたが,テグ(ソン・ガンホ)が日本軍追撃を取り払うためにトンネルのようなところを爆破する場面だ。 なので若干さらにすっきりした感じがある。 惜しいけれど。 今まで私たちが限界を分からない観客のためにこのように及ぼしたようにしてきたがその程度ができないと考えた。 本編よりさらにおもしろいDVDソプルモントゥを期待して。 (笑い)

-また他の編集本道計画中なのか。

=トロント映画祭用を作る。 カンヌ映画祭バージョンのアップグレード版がトロント映画祭バージョンであるようだ。 多分それが海外販売用プリントになるようだ。

-編集ボンをみな付けた時時間がどれくらい出てきたか。

=話も全部入っていて,退屈でないと考えたこと2時間35分,40分程度なったよ。

-それでなくとも撮影分が本当に多いのではないか。 ひょっとしてとりながらもこれがみな入りはしなくて二重で取捨選択されることだと考えたことなのか。

=私が色々な場合の数を数えて生きていくスタイルだったよ。 家で事務室出て行く時漢南(ハンナム)大橋を走る時もあって東湖(トンホ)大橋を走る時もあるのに漢南(ハンナム)大橋を走ればば何が良くて東湖(トンホ)大橋を走ればば何が良くて,こういう色々な場合の数を数えて見るスタイルだ。 そのような場合の数が撮影する時からたくさんあったようだ。 とにかくこの映画が強力なストーリーラインを持って行くのではないと見ると何か入れた時感じがさっと上がってきて,何かが不足した時力がさっと落ちるのが多かった。 特に映画がどんな意味でスタイリッシュな感じがあって音楽が入って驚く程生き返る場面があるかと思えば,音楽が入って亡ぼす場合もあった。 私が引き続きカンヌ映画祭バージョンと大いに違うことだと話したことはそのようなリズム感と映画的要素らによって変わるという意だった。 ところで人々は話が変わると思ったようだったよ。 私はサウンドと均衡感,リズム感,カットのマッチング感を話したことだったが。

-それならカンヌ バージョンでどのように変わったことなのか。

=エンディングがちょっと変わった。 そしてカンヌ バージョンは若干の話の可能性と関係なく,説明もなしで人物らがちょうど入ってくるのにそれを好む人々もいた。 ちょっと極端なエンディングというか。 それでカンヌ バージョンはハードロックだと表現した。 それに比べて今バージョンがカンヌ バージョンより良くなったことは均衡感が生き返ったという点だ。 カンヌ バージョンはテグが主導的へ推し進めたとすればここでは三人の感情的バランスが合って,関係がもう少しよく説明される。 それで最後に三人がついた時カンヌ バージョンよりアクションがはるかに感情的に良くなったのがあるようだ。

-あなたは映画を帰納的に考えるようだ。 映画を成し遂げる色々な組閣らがあってまた関節を連結する部位らがあってトルゴロクトルゴロク人形に作っておいたが二切れらがいつも交替させられることもできると見られる。 とにかくどんな固定された全体に対しては執着を全くしないようだ。

=そのようだ。 私はこれがどうなるのか心配していて映画を作る人だ。 それでもこの映画がどうなるかも知れないのではないようだ。 大きい原則と絵は当然ある。 その中で色々なバージョンの場合の運があるのにこれを引き出した時どんな感じで,ある(どんな)人々にどんなのがさらによく合うか,こういうものに対する考慮はある。 そんなことがおもしろくて不安だ。 若干魔術的な瞬間が訪ねてくる時ごとに魅了されるようだ。 私が分かれなかったし私が予測できなかった,または予測はしたがこの程度だとはすることを映画中でずっと味わって感じた方が良い。

-30億ウォンの映画を作る時は分からないがこの程度規模の映画を作る時はもう少し場合の数を制限しなければならないことではないのか。

=<反則王>を作る時,現場状況に合わせてあれこれを無数に変えたと考えた。 それで当初私が考えたこととは違った映画が出てきたようだったが,これも悪くないと判断した。 ところでとうに過ぎて<反則王>を撮影する前にしたインタビューをまた読んでみると当初の考えと映画が全く同じだったよ。 なので私が私の中で遊んだことだ。 <甘い人生>でも<長靴,紅蓮>でも俳優の調子,空間の感じ,カメラの調子などを考慮して作り出したが後ほどまた見れば‘ア私がこれをしようとしたんだな’とすることがあった。 <奴奴奴>に対してはるかに統制していなければならないことではないのか,もう少し計画的に行かなければならないことではなかったかと思って話をするのに結局この映画も同じように私が初めに夢見たことをしたことで,ちょうど変えるといって危険要素を持っていくという考えは聞かなかった。 そして常に周辺の人々に確認して変えるだろう,無条件これでするかしながら頑としてするのではないから。 苦しいから変えようとすることだ。 例えばこの場面は素晴らしくあるべきでなぜこのように素晴らしくないだろうと悩んでこのようにしてみようと意見を集約したのだ。

-主人公も三人なのに加え周辺人物も多くて,三国傷がついて貴市長波のように色々な勢力も出てくる。 入り乱れて多少混乱したりもする。

=恐れがあったりしたが大きく心配はしなかった。 私に重要なのはまさにその混乱だったためだ。 親切な説明をしながらカオス的な感じをあまり与えないことよりは親切でなくても混乱それ自体を見せることがこの映画を作るのに合うと見たのでそのように行くほかはなかった。 そして詳細な説明をしようとするなら2時間40分程度はならなければならなかった。 最も適合した線を探そうとしたのがこの結果であったという気がする。

-映画に入る前インタビューでジャンルを先に考えて話を選択する映画は<奴奴奴>が最後だとヘッチァンナ. その時ジャンルを選択するということはある種の話と主題も一緒に選択するということを含むと話したようだ。 当時ウェスタンというジャンルに関しては視覚的な地点をたくさん話したようだが,今考えるのにウェスタンというジャンルから始まった話と主題が何だったと考えるか。

=その時も話したがウェスタンはスペイン旅行をして思い出させたのだ。 幼い時からウェスタンを作りたいという映画的ロマンはあったが,そのような原野を見ると一種の解放感でもちょうど走りたい強烈な感じを受けた。 遠くに何があるだろうか考えてむやみに走ろうと思う。 映画の中にもそのようなセリフがいるが,夢や欲望,執着を持って何かを追いかけて行く時それをまた追いかけてくる人生の輩があるという気がした。 人間の執着や欲望と追って追われる追撃戦がこういう広大な大平原を背景にウェスタン映画中で見られることができるという考えた。 なので何かを追いかけて行ってそれを見てまたどんな他の恐れと恐怖が追いかけてきてまたそこで抜け出してまた何か追いかけて行く…. 人生はこういう追撃戦でないかという気がしたし,それでエンディングの大追撃戦に人生のカオスと混乱と阿鼻地獄を入れようとしたのだ。 日帝時代韓半島で追い出された先祖も満州という大陸を見た時そのような考えがなかったのだろうか。 最も絶望的な状態で本能的にロト当選を望む形でその空間に飛び込んでいないかという気がしたし。 テグという人物も例えばみすぼらしいロト番号を受けたことだがこれが合うのか合わないのか最後まで行って確認してみたいということだ。 ロトや地図や単なるチョンイッチョガク違うか。

そのような追撃戦から出発してどのように話を構成していったか。

=私が映画を作る時はどんなイメージ,映画的瞬間らを最も優位に置いて逆に作っていく。 ここに早く達しようとするなら何を経なければならないと思って逆に. 短所だと指摘することもできるだろうが,<奴奴奴>は結局最後に大平原を走るのを見せるための映画だ。 もちろん話を製織する過程が不十分だと指摘することはできるだろうが,それが私が映画を作る方式だから別に話す言葉がない。 私は話が不十分だという部分よりはその間韓国映画で成就できなかった部分を話せばさらにおもしろくないだろうか,さらに生産的でないだろうかと思う考えだ。 それで<ハンギョレ>きてインタビューしながらも小さい映画にスペクタクルがないのが大きいしようにならないようにこういう娯楽映画で話が硬ければより良いだろうがナレーティブの不在が根本的な問題になるのではないのではないのかとしたのだ。

-それでは観客がこの映画でこのような点を必ず見てくれたら良いだろうと考える部分があるならば。

=私たちが最も精魂を込めた場面が汽車シーン,貴市場戦闘場面,そして大平原の追撃シーンなのに,極端な視聴覚的快感を抜き取ろうとした。 生意気な声だが<ベンハー>私<マッドマックス> <プルリトゥ>のような途方もないアナログ アクション場面がある映画をすでに数えきれない程見たし,また会って‘これよりさらに優れなければならない’で考えた。 現場でもさらに生々しくてさらに躍動的でさらにダイナミックでさらに迫力感あふれなければならないという注文をした。 私が現場で最も多くある注文がそれだ。 ‘さらにはやく,さらに力強く!’

-そのようなアクションで追求したスタイルがあったか。

=韓国で成就できなかった部分らを私たちが一度見せてあげたかった。 貴市場は人々が結果だけ見るからやさしいと考えられるのに,それが<半分ヘルシン>でも<スパイダーマン>ではみなワイオケムでとったことではないか。 ところで私たちはワイアーをぶら下げた人々が直接したから。 なのでスーパークレーンとかワイオケミラドゥンガトギケムがしなければならないものなどをスーパーマン,ワイヤーマン,陶器マンがした。 (笑い)これがどれくらい疲れてだるくて難しいことなのか。 色々おもしろい場面が多いが,屋根上の桃源(トウォン)をとって下へ飛び降りるからカメラも一緒に飛び降りてまた下で創痍を捉えて後に陥るような撮影は<スパイダーマン>でもなかったことだ。 アナログ方式でこのように作り出したことはどんな映画でもなかったと考える。

-三回のアクションシーンがコンセプトと追求するところが各々違ったはずなのに。

=まず,列車シーンでは三人が集まるモチーフを劇的に作らなければならないようだったし,事件が始めるという意味で三人をどのように登場させるかを最も非常に悩んだ。 ところで汽車という空間が本当に大変だったよ。 幅が狭くて長くて撮影が大変だった。 回し輪も作って御輿(窯)同じ特殊な装備も即席で作ってとらなければならなかった。 走る列車の中でとったとのことを見せるためにカメラがきわどく外側にぶらさがってとることもした。 娯楽映画に真心を入れようとしたという話もそのような意味でしたのだ。

-貴市場シーンと大平原は。

=桃源(トウォン)は専門家だから遠くから全てのものを把握するキャラクターだ。 テグのように目の前に見えるのを打って行くのでなく彼が勢力分布を把握した後一つずつ捕まえて行く専門家らしいということを見せるために空中に上がらなければならなかった。 桃源(トウォン)はトルレ装置で上に上がって空間を占有するということによって数の劣勢を克服していく。 桃源(トウォン)のキャラクターを見せるために垂直と下降の同船を組んだのだ。 大平原はさっき話したように欲望の集合体,カオス的な状況を我を忘れて見せるために大爆発をさせたのだ。

-この映画を話すためにはあなた自ら話してきた二編の映画の話をせざるをえない。 その中一つは<夕陽の無法者>きて<鎖を切れ>だ。

=<夕陽の無法者>のようなセルジオ レオーネのスパゲッティウェスタンが西部劇を作りたいという映画的なロマンを与えたとすれば,<鎖を切れ>はそれを作ることができるという確信と方法を与えた。 そのような意味でこの映画の母胎はその二つの映画ということができる。

-ところで事実この映画と<鎖を切れ>は別に似ていていなかったよ。

=なぜなら(笑い)私は<鎖を切れ>を半分だけ見て飛び出した。 ア,これは行けば良いと確信したので。 (笑い)結局その二編をみな母胎でだがその二編どちら側と似ていなかった映画が出てきたんだろう。

-それでも<夕陽の無法者>にはオマージュがあるようだ。

=最後の三人が対立する場面はオマージュというにはあまりにもなじむ場面ではないのか。 3人が互いに戦う関係ならばそのようにするほかはないではないか。 私がスパゲッティウェスタンを見て受けた強烈な感じは非社会的で反英雄的な人物らを持っても感情を移入するようにさせる力だ。 ここでもそのような悪党を描写するのに多くの役に立った。 そして荒野を見せてその中で印象をしかめた汚らしい顔を通じて向い側買えということを見せてするカメラの風景に対するオマージュもあった。 その三人の対立場面を撮る時は今まで持ってきたキャラクターや感情をみな増発させてそのシーンにだけ忠実なように要求した部分もあった。

-が映画の中満州,特に貴市場は30年代満州とみるより<スターウォーズ>のタトゥーの惑星のような感じが出る。 そしてテーマパークのような感じが強いようだ。 また誰かは<ブレード ランナー>とも類似の空間ともして。 セルジオ レオーネの映画を見れば人物らがたいてい汚らしくてちょうど買ったおじさんらなのにチョン・ウソンは理想化させたバージョンでよく抜けていて,セットもウェスタンは貧しいバージョンなのにここはぎゅうぎゅう一杯になってイッチァンナ. ワブルも出てきて象も出てきて。 そんなことのためにどこにもないテーマパーク同じ印象が強いと感じたようだ。

=私たちも雨が降る貴市場場面を撮る時‘なぜセルジオ レオーネ映画が<ブレード ランナー>がなってしまっただろう?’と冗談みなして話したことがある。 貴市場は例えば清渓川(チョンゲチョン)のような空間だ。 幼かった時は清渓川(チョンゲチョン)商店街で潜水艦や人工衛星まで作るという説もあった。 (笑い)そのような清渓川(チョンゲチョン)の満州式変容を作ろうとした。 それであらゆることがあることだ。 その巨大な仏像は激しく戦う人々を見下ろす姿をとろうと作っておいたのだ。 ところでそれが入れば作家のように見えそうで抜いた。 それで道に象とともに何か大きいのが過ぎ去ったらと思って仏像を入れた。

-主人公中で桃源(トウォン)の動機が不明だという気がする。 表面的には懸賞金のために飛び込んだが,誰かに対する個人的怨恨があるというニュアンスもあって,独立軍との関連性もあるようだ。

=当初の桃源(トウォン)キャラクターは馬賊団にまきこまれて独立軍部下を全部失った独立軍出身だった。 ところでその理由を入れるのが煩わしかったり,桃源(トウォン)の魅力を減少させるようだった。 この人は非常に出てきてそのままお金追いかけて行く人ならば良いと考えた。

-桃源(トウォン)だけでなくテグも貪欲な人物ならばしたがそうでもない。 彼が地図を追う目的も少し曖昧だ。

=テグと桃源(トウォン)が月夜にひそひそに話す場面でみな話をしたと考えたが….

-いつもそのようにしてきたが,人物を扱うのがとてもクールなことではないかという考えになる。

=私が火のような映画を作ると考えたとすればもう少しあらわれたがそうしたことではなかったためにその程度で移ってもかまわなくないだろうか考えた。 ジャンル映画をしながらも人物の心理と内面にたくさん入ろうとするほうだけれど,でも純粋活動史陣の快感をより多くやりたかったために。

-民族と歴史に対してもクールだ。

=そのような問題をちょっと取り出すことが人物を説明して人物で近寄るためにも必要だったようだ。 どれくらい絶望的な状況ならばこの人らがこのようにシニカルに無政府主義的な態度を取るだろうか。 テグの“私たちの同じやつら両班(ヤンバン)らの下でサナ,日本やつらの下でサナ何の上官か”という悲観的なセリフも体で話すということだったし。

-ジャンルから出発する最後の映画だというのが特別な意味があったか。

=失業者10年,映画監督10年を送ったが,新しい10年を迎える感じで臨んだようだ。 それでこれも私だけ分かるということなことがあるが,テグがチャンイに“全てのものみな忘れて行きなさい,どうせ行くことならばすがすがしく行くべきで”というセリフもそのような考えを入れた。 これをしなければ次の段階に行くことができないという考えのために<奴奴奴>は私が初めて映画を通じて何かを成し遂げてみなければならない,何かを見せなければならないと考えた映画だ。 それで今までしたヌアール,コメディ,若干はホロティカン感じら,コミック残酷なものなどを所々混ぜたようだ。

-撮影途中後悔したことが多くしていないのではないか。

=企画をする時三人の俳優が集まったがそのような考えがハッと聞いた。 私がこれを何故するといったのだろうか,と。 私はそのままソン・ガンホと色とりどりな娯楽ウェスタンをとろうとしたのに。 三人が集まるから突然大きくなってしまったことだ。 期待感が大きくなって製作費も上昇したことだ。 とりながらもたくさん後悔した。 特にぴったり中国に行ったが,私がここになぜ来た乞食こういう考えが多く入った。 そして不可抗力というものがイッチァンナ. 私が韓国で映画を撮る時ならないのがあるといえば‘これがなぜならなくて’ちょうどこうしたが,明確にならないのがあったよ。 ところで私の欲でなくともスタッフらと俳優らの欲もまたすごかった。 行くところまで行ってみようということをすべての俳優とスタッフらが共有していたようだ。 彼らにとても感謝した心だ。

-<バットマン>シリーズのように悪い奴を変えていって続編を作る可能性を開けておくのではないか考える観客もあるようだ。

=<奴奴奴2>が違うことだ,<年年年>ならば分からないが。 (笑い)事実2弾よりは満州アクション,満州活劇という欲求があって解いたということに意味がある。 その間アクション活劇に対する期待は多かったが組織暴力映画だけとてもたくさん出た。 この映画で満州ウェスタンを数十年ぶりに復活させたものだが,こういうジャンルが違う監督の映画的ロマンを実現させる起爆剤として作用したら良いだろう。 <タチマワリー>道(ド)他の見方をすればそれの一つかも知れない。 事実西部劇に対するロマンを持った監督様が多い。 まずオ・スンウク監督が偉大な満州ウェスタンを作ることができる監督という気がして,チェ・ホ監督も西部劇に対するロマンが強烈だったよ。 イ・ミョンセ監督様やパク・チャヌク,キム・ソンス監督様もそのようだ。 こういう満州活劇が位置づける意味でも商業的に,産業的に損をしない映画になったら良いだろう。

-キム・ジウンの‘第2期’に対する構想はあるか。

=今からはどのような話にどんなジャンルが合うか考えるようだ。 その間私がジャンル映画に対する熟練期を立ち寄ってきたが,今ははじめてどんなジャンルをしても試行錯誤なしで完全に見せることができるようだ。 その間私は常にしたかったことをしたようだ。 その間内映画に対して2%不足するという評価が出てきたことも私がしたいのをしようとすればそうしたようだ。 今や映画を少し知ったという考えになる。 その間私が映画をとても空間に偏って作ったとすれば<奴奴奴>を下面からは映画が時間性の媒体ということをはじめて悟った。 去る10年度意味のある作業だったが,これから迎える10年がさらに気になってさらに意欲があふれる。 より良くなるだろうという考えになる。

文:キム・ヘリ文:文石写真:書誌型(<マド>スチール記事) | 2008.07.22

この記事がアップされた時 私はまだ映画「ノムノムノム」をみていませんでした
韓国バージョン、カンヌバージョン、日本語バージョンを何十回も観た今 
この記事に書いてあることがよく理解できます
あのシーンでは監督はそう考えていたんだとか
私は視聴覚的感覚を味わうことができたと思います
あの銃撃戦でのシーンは胸躍りました
by kazem2 | 2010-01-04 22:06