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キム・ジウン監督の四回目長編<甘い人生>の魅惑と限界

<甘い人生> [1]

キム・ジウンの四回目長編映画<甘い人生>が4月1日封切りする。 <甘い人生>は高い価格で完成前日本に輸出されることでも関心を集めていた。 ついに蓋を開けた<甘い人生>には長所と短所が一緒にいる。 キム・ジウンが描き出す彼ヌアール世界へ入るために<甘い人生>に対する紹介文とインタビューを一緒にのせる。




クールなカオスにきたことを歓迎します!
キム・ジウンの四回目長編映画<甘い人生>が標ぼうする求心点はヌアールだ. ジャンル,スタイル,養殖,思潮,傾向,現象,運動,トーン,たまには何でもない批評的詐欺術にすぎないという主張が出てくるほどヌアールはすでに映画的規定の緩さに至った概念だ。 ヌアールと膨らませよりいつも他の何と共に話すべき成立が可能だったりまたはヌアールジョギン(noirish),ヌアールソン(noirness)という曖昧な話と呼ばれることがさらに正しいという話が出るほどだ。 ヌアールは事実何でもない。 それで何でもできる。 だから“アクションが加味された血まみれヌアール ラブストーリー”という<甘い人生>に関するキム・ジウンの複雑な自己規定も変なことはない。

運命的敗北の前にクールなふりをする男たちの話

一時韓国的ヌアールと呼ばれた映画らがあったが,そこに出てくる男主人公らは全部自身に付与した運命を恨んだ。 その一方で何かを死ぬほど懐かしがった。 最後に残った純粋を守るためにもがいたしまたはもがいて純粋さを回復とは血で染まった身体になって,死体になって切実にすでに過ぎ去った夢を念願した。 <甘い人生>はその話だけでは彼らと違うところがないそうだけどむしろ多くの差がある。 キム・ジウンはそのような韓国的ヌアールがあったことを最初から念頭に置かないのに四回目映画を作ったり,密かに念頭に置いて完全に違ったところに立つと避ける。 <甘い人生>は悔恨にぎっしり埋まった男たちの話でなくその運命をついにクールに受け入れる,死の前でも最後まで‘素晴らしい(戚下は)男たちの話’となる。

組織のボス カン社長(キム・ヨンチョル)が自身の幼い娼婦(シン・ミナ)を監視しろとキム・ソヌ(イ・ビョンホン)に命じなかったとすれば何も起きなかっただろう。 だが,キム・ソヌは長いストレート髪後に突き出た彼女の耳たぶを見て,襟首を見る。 愛したことかわからなかったが,‘残像’は残る。 それがすべての戻すことはできない破滅の開始だ。 あふれる衷心と能力よりも“恋人いなくて,愛してみたことない”無心者なのでさらに信じて仕事を請けることはボスの信任ははずれて,キム・ソヌは愛の残像に縛られたまま許さないでくれとしたのを許してしまう。 勢力を広げようとするペク社長(ファン・ジョンミン)と同僚であり背信者の文石(キム・レハ)のはさみ撃ちは彼を窮地に追い詰める。 そして,カン社長の怒りはキム・ソヌが受け取らなければならないより大きい威嚇だ。 彼は世の中に一人だけだ。 “いつからこのようになったんだろう?”自身に尋ねるが知る術がない。 世の中で守られる原則という(のは)ただ一つ,どれも思いのままにならないということだ。 理由も知らず外れるということだけだ。 映画の初めての場面で昔昔ある師匠と弟子の禅問答を詠じるキム・ソヌのボイス オーバーナレーションで始めてこの映画は“はかないということ”に関するアフォリズム,無常な存在論の入口がここにあるということを暗示するということと同時にジャンル枠組みとしてのヌアール最初の公式も軽く守る。

キム・ジウン特有の空間とビジュアル

<甘い人生>の長所を代弁するのは空間とそのビジュアルだ。 キム・ジウンは空間を人物のように対する監督だ。 彼が発揮する細心な細工術は空間に性格を吹き込む。 <静かな家族>に山荘があって,<反則王>にリングがあって,<長靴,紅蓮>に物の怪に取りつかれた家があるように,<甘い人生>には住公間として機能するホテル スカイラウンジがある。 そちらは世の中の縮小版だ。 初めてと終わりがある所だ。 意味でだけ持ちこたえている所でなく映画の商業的成功を推進する派手なアクション場面が広がる所でもある。 文石輩と正面対立する廃虚での場面を火花散る火角材アクションに傍点をつけて撮影したとすれば,こちらでの最後大血戦は銃を持った者らの無差別な乱射に焦点が合わされる。 例えば<甘い人生>でのアクションはからだと延長でするアクションシーンと銃を道具でするアクションシーン,このように大きく二度で分けられている。 電子が“わずか雨の中でゾンビのように駆け寄る誰何らと戦うカオス的な感じ”ならば,後者は‘にせ物木’下で疲労染まっていく者らの最後虚しい戦場死にならなければならない。 ここにこの空間でまた進入する前まで叙事は広く繰り広げられて,主人公キム・ソヌは手のほどこしようもなく広がる事態をどうすることもできなくて,その渦中に笑わせる武器密売者など(キム・ヘゴン,オ・ダルス)は登場して冗談を言って役割を終えて死んでいく。 殺して,笑わせて<甘い人生>にはキム・ジウンが作る屈曲がある。

<長靴,紅蓮>と同じ魅惑,同じ弱点

<甘い人生>は<長靴,紅蓮>と同じ方式で作られた映画だ。 ここにホラーとかヌアールニする区別は別に効果がない。 これは<静かな家族>でも<反則王>とは違った方式で作られた映画という言葉もなるだろう。 前作二編(便)でコメディが全面に立ったとすれば,<長靴,紅蓮>は笑いをおさめたという意味より映画を作る方式自体が変わったという点でさらに注目しなければならない作品だ。 例えばこういう言葉. “叙事とナレーティブでなく主題に該当するナンナッの印象らが招く悲劇で映画を展開しようとした”,“私を寝ながらもむくっと起きるようにさせる人生の瞬間らがある。 その時なぜそうしたのだろうか。 彼は私になぜそのようなことをしようかと思う,記憶を元に戻したくなくて結果を元に戻すことができなくて人をしばる瞬間ら話だ”. この言及らは<長靴,紅蓮>に対する監督本人の説明だが,<甘い人生>に対する説明に使われても大きく外れないわけだ。

今と同じスタイルを叙事の因果律から自由で見たがる欲望から始まることだと推測できるが,確実なことは二つの映画全部エンディングにだけその印象(引き上げ,人相)らを含蓄して表わそうとするということだ。 なので,全般的に叙事は不足したミステリーになったり(<長靴,紅蓮>),八方に繰り広げられて(<甘い人生>)エンディングに至るまで相当部分延期になる。 そして前場面らに意味を新しく付与するほどの主要なイメージらが集約的にエンディングに添加される方式だ。 <長靴,紅蓮>と<甘い人生>は全部そのように構成されている。 それが“説明でなく情緒”のための添加過程であっても,エンディングにだけあらゆる事を押し退けるのは相変らず疑問の種だ。 なぜ映画全体ではなくてエンディングか? それは映画がゲームのようになる危険な瞬間だ。

キム・ジウンが<静かな家族>で話を雪だるまのように膨らむだろうながらも特別な混乱に陥らなかった理由はそれを叙事の次元で扱って開かれた構造の可能性を引き出したためだ。 <長靴,紅蓮> <甘い人生>はすでに広がってしまった,あるいは避けられないことというものを映画的な方式で探っていく過程に近い(記憶と回想と運命). エンディングに‘加えられた’そのショットらがない時全般の映画を理解するのに困難を体験するから,そのショットらを勝手に受け入れることはできない役割だ。 したがって,叙事の適切な妥協と同じようにショットらの的確な意味が重要になることだ。 それだけの確信も必要だ。 それに説得力がなければ幻影になって,‘フォーム’を捉えることになる。 そのような点で<甘い人生>は<長靴,紅蓮>と同じ魅惑があるが,同じ水準の弱点を持っている作品だ。 何よりエンディングが全体を一手に引き受ける構造よりは全体の関係の中でエンディングが中心になるそのような構造がさらに切実だ。


<甘い人生> [1] 1/2 <甘い人生> [2] -キム・ジウン監督インタビュー2/2

文:精悍席2005.04.06
by kazem2 | 2009-12-17 22:24