ANEMA E CORE


by kazem2
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

<げんこつが泣く>・<甘い人生>現場訪問記[3] シネ21

キム・ジウンの呼吸法-ピルがささる明確なコンセプト
e0109292_1237465.jpg

<甘い人生>の撮影現場はち密で,ずっと議論をしながら進行される。 一場面を作るために,あるカットをまともにカメラに入れるために無限の情熱と努力が加えられる。 “<甘い人生>は・ソヌの感情状態にしたがってますます強度が強くなる。 暴力的になって,制御することはできない状態に成っていく。 そこにしたがって暗い空間,光のディテール,強度も高くなる。 その感じる度合いを調節することがカギだ。”




”映画のリズムを作り出す能力は,すでに前作らで確認された。 ナレーティブが紛らわしかった<長靴,紅蓮>でも,少女の後悔,怒りなどすべての感情がどのように竜巻を起こすかを感じることができた。 とても強烈に。 “ナレーティブだけでなくイメージ,テックス,表情,ニュアンスなどで主題を表現するのが可能だと考える。 私の映画は明確な,鋼鉄のようなナレーティブがあってどのように作っても話になるのではなく繊細な構造中で多様な要素らがマッチしてナレーティブに伝えられるスタイルだ。 それでどんな場面で音楽の挿入や編集の米奇遇のようなものらによって主題が鮮明になってする。 考えてみれば真正性を伝達しようとする時誰でも自分だけの呼吸法がある。 それがどんな呼吸法かとのより主題が伝えられることという気がする。 私は痛い。 君たちも痛くないのか,と尋ねるのにそれを伝達するための方法が結局主題がでないか,と考えるほうだ。”

だがキム・ジウン監督の映画はいつも鮮明だ。 ナレーティブが紛らわしくても話すことが何かは明らかだ。 彼のすべての映画が興行に成功した理由一つは,大衆に明確なコンセプトを見せるということだ。 小心な銀行員が夜には反則王プロレスラーに変身する。 この文章一つで<反則王>がどんな映画なのか明らかに知ることが出来る。 作品性はそのコンセプトをどのように表現したのかによって決定されるだろうが,観客はその文章一つで劇場に行く。 ナレーティブよりイメージとニュアンスに没頭するキム・ジウンの映画が非常に大衆的であることもある理由はそれだ。 “ピルがささること。 何かあるようだ,という気がすればそこに行ってそれを表現しようとするのに,最後に行けば結局また初めにピルがささったそれに帰る。”キム・ジウンは明確なコンセプトを,自分だけの独特の語り口で伝達する。 <静かな家族>で<長靴,紅蓮>につながるフィルモグラフィーは,演劇で映画に越えてきたキム・ジウンの映画的文体がより一層深くなって,洗練されていく過程だった。 恐らく<甘い人生>はその頂点になるだろう.

ある選択の苛酷な代価,人生は不条理だ

ピルルムヌアールというジャンルは,ものすごい現実の隠喩だ。 世界大戦の傷が抱かせた敗北主義と悲観主義. それは21世紀に達して,人間の本質的な不可能性に対するせんさくでより一層深くなる。 <その男はそこなかった>私<インサップニア>の男たちは,どこにも至っていないまま不在に帰ったり遠視の空間に残らなければならない。 この都市の中で,文明のまん中では生き残ることができない。 その欠乏,不在の空間はキム・ジウンの映画が一貫して見せたことだった。 ‘静かな家族’は決して静寂を探せなくて,‘反則王’は決してこの社会のチャンピオンがならない。 もう一つの現実の中で,いくら継母を嫌っても少女の罪悪感は消えない。 しかしその奥深い迷路の中でも,彼らはどこかに進む。 それがキム・ジウンのフィルモグラフィーであった。

<甘い人生>のソヌは,まだ甘い人生を味わったのではない。 そのまま少しの間味わったことあるいは夢を見たことだけだ。 <パルプ フィクション>(1994)の,ジョン・トラボルタのように,ソヌはボスの女を監視しろとの命令を受ける。 ジョン・トラボルタは踊って,誘惑を耐え抜いて,命を生かして立派にボスの腹心に残る。 それにしてもブルース・ウィリスに犬死にいたるが。 ボスの恋人のヒスが,一人の男と会うのを捕らえたソヌはしかし,しばらく揺れる。 そして置く。 それが皆に最も良い選択だと考えて。 ヒスと男は生きて,ボスはヒスの貞節に喜んで,ソヌも手に血を染めないでボスの信任を得る。 誰の損害もない。 だがその善意の選択が,彼を残酷な地獄で引っ張って入る。

ところで,それは選択ではないようだ。 キム・ジウンは道徳的選択と印象的選択をいう。 “主に印象的選択に左右されるのに,そこにはいつも代価が後に従う。 そこにともなう苦痛を味わわなければならない。”だがいったい印象的選択とは何だろうか。 “私がその間映画を撮って最もたくさんした話が不条理だということだということだ。 人生のアイロニー,不可抗力と不可能性のようなものら. そのような点で選択ではないこともある。”人間の選択という(のは),もしかしたら運命だ。 ソヌは冷静に生きていくようだが,欠乏したその何が彼を導いていく。

ここでキム・ジウンはスルラボイェチジェクの視線を引き込む。 “人間は見るのを言語と規定する。 しかし言語が達し得ないことがある。 表現できないことに対して代替が必要だ。 イメージや迷信のようなものら. 人間はそのような代替物を絶えず再生産やり遂げる。 <タイタニック>の核心は上流階級の女と貧しい男の愛にない。 その愛が成り立たないことを観客はすでに知っていて,それでそれを跳び越える巨大な悲劇が必要だ。 ソヌやはり甘い人生の夢を見るが,それが不可能だということを直感する。 それで無意識的により大きい悲劇を抱きしめる。 火を付けることだ。 そのままその欠乏を,不可能性を抱いて行くのが苦痛でさらに壮烈に,より大きい悲劇を迎えることだ。”ソヌは一つのファンタジーを見たし,無意識的に印象的な選択をすることになることだ。 なのでそれは運命だ。 悲劇的運命に順応して,壮烈に酸化することだ。 それが下品な人生を投げてしまう男たちの愚かさだ。 キム・ジウンはいつもそのような不完全な人々の話をしてきたし,その不完全性が人間の基本だと考える監督だ。

奥深い話のようだが,キム・ジウンは真剣さの重さを不適当だと考える監督だ。 これ真剣で,と重さとらえて話すものだ,冗談のようにプッと公衆(空中)に投げてしまい自分がすべきことに没頭するスタイルだ。 “だがそのような話をくすんでいるようにするつもりはない。 ピルルムヌアールというジャンルの楽しみ,霊化するかを見る楽しみを充分に与えるだろう。 やぼったくなく,とても真正性あるように聞こえないように。” <甘い人生>には残酷な場面らがかなり多い。 銃撃戦が広がって指が切られていったり,四方に血がたっぷりある。 だがそのような描写らやはり,‘現実感よりは映画的楽しみ’にまい進するつもりだ。 とても真剣に言うことに,この世はとても不条理だ。 とても残酷で,とてもごちゃまぜで,とても滑稽だ。

<甘い人生>銀,甘さに投降するには何かが欠乏した男の話だ。 その不完全性を自覚するので(に),彼は甘い人生に身を投げることはできない。 そのまま陥って,そのまま埋められてしまうので(に)彼はとても鋭敏で,冷静だ。 それで彼は代価を払って,犬のようにみじめに死んでいく。 だがそれが人間が選ぶことができる,唯一の人間的な道でもある。 “人生で窮極に到達することはできない。 だがそこに行こうと何かありったけの力をふりしぼりながら行くならば,何か目つきが変わって,その人の感じと態度が変わる。”それがまさに甘い人生で,トゥルーロマンスで,ゲームの法則だ。

文:キム・ポンソク(映画評論家) | 2004.12.15

この評論家の最後の文章を読んだ時 映画「甘い人生」でみた「la dolce vita」を思いだした
私はあれをみてキム・ジウン監督に興味を持ちました
by kazem2 | 2009-12-11 12:34 | Comments(0)