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by kazem2
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キム・ジウン監督 少女の肉体に投射されたある男性の不安と欲望 シネ21

首尾の内面の代わりに脚に耽溺する<長靴,紅蓮>

少女の肉体に投射されたある男性の不安と欲望

<反則王>以後,キム・ジウンはますます厳粛していく。 笑いはしょっちゅう晴れて恐怖それも荘重な恐怖,グロテスクある美しさを持った,本人の言うように恐ろしくて悲しい恐怖,情緒的ニュアンスがボールタッチされてスタイリッシュな画面がボリューム業なったAカップ恐怖を夢見る。 しかしとても不思議に<長靴,紅蓮>を見て‘これがまさにキム・ジウンであって’という気がするようにさせる,キム・ジウンの印象が引き立って見える地点は恐怖でなく相変らずとんでもないキム・ジウン式笑いだった。 ‘君思い出すの?’を連発して継母の役割のヨム・ジョンアが一人でワンマンショーをするように厳粛なディナーの雰囲気を二切断する場面.
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その上キム・ジウン監督が真顔になるほどキム・ジウンの映画はそれとなく反則の程度も激しくなる。 話の前後ぴったり合わないのは皆同じだった<静かな家族>には<長靴,紅蓮>のように過剰の演出で話の迷路を脱出しようとする正色がなかった。 <反則王>は・スオウ,マサユキ類のコメディを受け付けたのが明らかに見えたが,この時も彼は自身が引用した混成模倣を隠そうとする強迫がないように見えた。 しかし<長靴,紅蓮>に達してスタイルがジャンルの規則を圧倒して監督は数多くの恐怖映画らを何の注釈なしに無断盗用する。 ここには<シックス センス> <ティ アドス> <サイコ> <キャリー>のようなハリウッド好みがあるかと思えば,<キューオ> <オーディション> <リング>のような日本ホラー好みに<女子高怪談>のジャンプカットと<鳥肌>のイメージも抜けられない。 個人的にはハウスホラーの決定版<シャイニング>煮込んで,一個人の内面と認識の問題を精神分裂症的画面に表わしたクロネンボグ監督の<スパイダー>のような映画も浮び上がる。 これほどになれば私がとても恐怖映画をたくさん見たり,キム・ジウン監督がとても恐怖映画をたくさん見たのが間違いない。 しかし何よりも<長靴,紅蓮>はすでに<スリー>の恐怖映画戦略をそのまま移植した,キム・ジウン監督自身の青白い模写品の影がちらつく。 それならキム・ジウン彼はなぜ,自身が最も上手にできる正規商品コメディを拒んで反則監督になったことだろうか?

観客動員200万人というスコアが言うように<長靴,紅蓮>の恐怖映画としての任務は外形的に成功また成功だ。 <長靴,紅蓮>は観客を厳しくする。 そのまま厳しくしないであきれるように驚かせる。 おばけの怨恨と生き残った者の罪の意識という<メモリズ>の戦略は<長靴,紅蓮>でも相変らず有効な二重の戦略だ。 事実キム・ジウン監督は<長靴,紅蓮>でどうにか観客とのゲームで勝ってみようとするように二重三重の恐怖網で必勝を念を押している。

ファンタジーの迷路で道に迷う

一例で首尾は夢から目覚めたがまたベッド街を回って恐怖のジャンプカットに駆け寄る喪に服した寃鬼に会う。 <長靴,紅蓮>で最も印象的な場面の中の一つの二シーンで,首尾が夢から目覚めたことで想定した観客は引き続き登場する寃鬼をきっと現実に受け入れるほかはなくなる。 観客の恐怖は倍加されるが,しかし脚の間でスーッと血を流した寃鬼はまた再びの夢の中の存在だけのことだ。 この寃鬼はいったい誰か? 首をくくった首尾のママのようで,そうするにはこの寃鬼はとても少女的な初潮の恐怖を滞貨している。 寃鬼の存在はひとまず占めても最初の夢はいったい首尾が夢の中でまた見た夢かでなければ二種類の夢が続けて反復されたものか? これは観客にとって夢の中のおばけを現実のおばけに受け入れるようにトリックを使う一種の反則だ。 そしてこれはすでにチョン・ボソクの度重なる夢で観客を驚かせた<メモリズ>でもすでに使った手法でもある。

ここに監督はまた再び必勝を念を押すように希代のおばけのシジョムショッを登場させる。 映画序盤部,ちょうど帰郷した妹愁然はぞっとした音響効果とともに自身のドアを開ける未知の手を発見することになる。 びっくり仰天するように驚く愁然. しかし映画後半部愁然は首尾が作り出した歓迎,愁然の死をほう助した新しいママ恩主に復讐する寃鬼の姿を帯びて衣装だんすから出ることになる。 きっと死んだおばけにならざるをえない愁然の恐怖とシジョムショッは愁然をあたかも生きている人間のように見えるようにさせるキム・ジウンのまた他のトリックだ。 もし<シックス センス>のような映画におばけのシジョムショッが入るならばどうだろうか?そういえば<メモリズ>で洗濯表に書かれた電話番号を探し回るキム・ヘスを見て‘世の中には記憶喪失症にかかったおばけもあるんだな’として不思議に思ったから。 すでに死んだ花,乾いてしまったほおずきを取って食べる愁然の姿で愁然が死んでしまった子供という隠喩は充分だった。 もちろん愁然の時点さえただ首尾が作り出した歓迎だと片付ければ映画はとても簡単になってしまう。 それならシンク台の下で寃鬼を見たというてんかん聞こえた女の客観的視線と発言はどのように確保されることができるだろうか? <長靴,紅蓮>は幾重にもまいて後れを取った話と幻想の迷路に閉じ込められるどたばたを繰り返す。 おばけにも人間的な速成科観点を付与して夢向こう側にはまた夢が,おばけにはまた他のおばけが,幻想の中にはまた他の幻想が存在する。 これは現実と非現実を消す,タイプと自我の境界を跳び越えるジャンルのアワビというよりは反則とトリックでぎっしり埋まったジャンルのかく乱に近い。 これは明らかなびっくりショーだ。

後振り返ってみればキム・ジウンの映画が魅惑的だった理由は最も残忍な状況でも最も軽い笑いを流すようにさせるはっはとローン気勢が人を引き寄せたためだ。 実際のところキム・ジウンの多くの映画にはグロテスクある家族の写真が核心イメージを成し遂げていて,その紛らわしい家庭でキム・ジウンの主人公らは殺意の欲望という終着駅をそのまま行き過ぎることができない。 レスリングという純化された記号で表出されるが<反則王>の,イム・デホの部長に対する欲望やはり殺意ではあったが同じことだ。 このように残忍な殺意の身振りに対抗するキム・ジウン式防御しくみが笑いならば,恐らくその裏面にかくれたことはその残忍さにからだを震える恐怖であろう。 キム・ジウンは世の中が疎通可能なところだと信じない。 キム・ジウンの家族らは別に遊んで,すべての悲劇はコミュニケーション不在で始まる。 意味の断絶は誤解を産んで誤解は罪を産んでつかむ罪の意識を産む。

めまいがして隠密なパティ詩的欲望

しかし<長靴,紅蓮>に達してはそのすべての罪の意識が,笑いという排出口を受けることが出来ない罪の意識が女性という肉体に投射される奇異な珍しい風景が広がり始める。 確かめ合って見れば原子力発電所の<薔花紅蓮伝>が持っているテキストの豊富さ,それは家父長制社会が,儒教社会が思春期少女らの性的成熟と逸脱を耐ええることができない時活気は巨大なむら(しみ)だった。 単に息子を産んだという理由だけで前妻の実子を殺すことができて,単に身ごもったという陰謀だけでも死に追い込むことができる家父長制のものすごさがむしろ<長靴,紅蓮>の豊富なテキストの層上を成し遂げた。 しかし<鳥肌>のように血流す子宮としての家,実在界で上がってきて現実に鋭い傷を振り回す爪,そしてその爪の下に挟まった血痕を扱っていながらも<長靴,紅蓮>はただ自閉的なファンタジーで留まってしまう。 とても少し近親相姦と姉妹間のレズビアン的欲望を表わした後,<長靴,紅蓮>は急いで原子力発電所<薔花紅蓮伝>で最も古典的で保守的なイデオロギー一つを抜き取って映画の最後まで引っ張っていくことだ。 いったい夫とチョンブンナン若い女を殺すよう嫌いながらも自ら若くなろうと努力する‘愛と戦争’のおばさんたちとお父さんの愛を奪われて新しいママに同化と異化作用を繰り返すこの少女は何が違うものであろうか? キム・ジウン監督は<月下衣共同墓地>以後<下女>まで度重なる無策傍観型家父長の姿とその家父長の垣根の中で寃鬼になったおばけのテキストを高価格なアンチーク スタイルの名品で装いさせる。 しかし<長靴,紅蓮>のイデオロギーはただ一つだけのことだ。 ‘女たちどうし戦うように置いておきなさい。 男は罪がない。’


家父長制下で経験する女性に対する最も皮相的結果で<長靴,紅蓮>は・スミの見解で眺めた内面の恐怖の代わりに女性の足に対するキム・ジウン監督のフェティッシュ的欲望だけをいっぱい満たす。 周辺の実体を分けるエクストリーム クローズアップ技法と共に序盤部をいっぱい飾る少女らの脚. キム・ジウンの映画で‘脚から始まって顔で行くペンショッ’が如何に多く登場するのか一度数えてみなさい。 <カミングアウト>でやはりヴァンパイアになった彼女は首の代わりに太ももをかむ。 女子学生のセーラー服に耽溺する日本のポルノのようにキム・ジウンは少女の脚と初潮のイメージに耽溺する。 脚の間で流れる血は<カミングアウト>と<メモリズ>を経て<長靴,紅蓮>にも間違いなく反復されるキム・ジウン式恐怖の核心だ。 少女らの性的成熟に対する不安は<キャリー>のような恐怖映画以後悠久なわけだが,<長靴,紅蓮>で水の中をうっとりするように掻き回す脚,あたかも彼女のアイデンティティを確定するようなフェティッシュ的な欲望の気勢はめまいがするように隠密だ。 それは社会的省察を拒否する自閉的な家,血流す子宮中に封印されている。 それはうっとりするが過度に危険であえて近く近付くことはできない官能の罠だ。 分裂症的なナレーティブの迷路を経てスタイルに対する強迫を担ったまま恐怖ジャンルに対する過剰のコンベンションで解消されるようになるあの冷たい情熱の粒子ら. 少女の肉体に投射されたある男性の不安と欲望は停滞(正体)情分裂という血の代価を少女に払ったのでおさめる。

もしかしたらキム・ジウンの主人公らにぎこちない身振りの慎ましさと笑いが消え始めた時,キム・ジウンはすでに墜落し始めたことではないか? <長靴,紅蓮>は女性の疲労女性観客を手ぶりするが,女性の名前と女性の内面と女性の不幸を前に出すが,違う。 ‘お父さんの法が許諾する全てのもの’であるそれは,明確にキム・ジウン監督の定額で使われている。


文:シム・ヨンソプ(評論家)2003.07.03

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映画「下女」韓国映画の歴史中で必ずでてくる映画です チョン・ドヨンssiがキャスティングされて来年リメイクされた「下女」が公開されます
by kazem2 | 2009-12-05 20:33 | Comments(0)