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キム・ジウン監督のジャンル的想像力,<長靴,紅蓮>シネ21

文:流雲性(映画評論家)

■ Story
人影が少ないところに位置した人里離れた家. 首尾(イム・スジョン)と愁然(ムン・グニョン)姉妹がこちらに到着する。 彼らはソウルで長期間の病院生活を終えてお父さんムヒョン(キム・ガプス)と共にちょうど帰ってきた。 久しぶりに家に来た彼女らは家の近所の貯水池に走っていって水に足を濡らしてうれしがる。 家に入るや継母の恩主(ヨム・ジョンア)が彼女らを暖かく迎えてくれるが,姉妹は彼女に強い敵対感を表わす。 さほど経過せずこれら家族の家で変なことらが広がり始める。 愁然は誰かが自身の部屋にこっそりと入ってきた。 出て行くのを感じて不安に思って首尾はぞっとする姿のおばけが目の前に現れる夢を見る。 恩主もまた例外なく不安に苦しめられるがただ家長のムヒョンだけが冷静を維持するだけだ。 その中で二人の姉妹と恩主の間の葛藤はより一層心していく。




■ Review
監督の意図のとおりならば<長靴,紅蓮>は明らかに‘罪の意識に関する探求’にならなければならない映画だ。 作者未詳の小説<薔花紅蓮伝>をすでに読んだ人ならば,このように反問するかも知れない。 邪悪な継母に向かった寃鬼の複数劇を持って罪の意識に関し探求してみると? だが寃鬼という(雨)存在が絶えず現れるのはそこまで解けない怨恨のためというよりは,むしろ隠しておいてはとうてい気がすむことができないほど強力に沸き立つ(寃鬼を作り出した)加害者の罪の意識のためならば? すなわち罪の意識は本来被虐的な主体の想像であり寃鬼はその想像が作り出すファンタジーに違わない。 別に話せば寃鬼が複数を夢見るのではなく,罪の意識が寃鬼を‘とても切実に’呼び入れていることだ。

問題は原作<薔花紅蓮伝>に現れた継母が決して被虐的な主体ではないとの点にある。 結局キム・ジウンの三回目長編映画<長靴,紅蓮>銀,‘とても切実に’寃鬼を呼び入れる罪の意識を表わすために,簡単に,原作をあきらめる。 端的に話して,キム・ジウンの<長靴,紅蓮>は韓国映画歴史上‘最初に’原作小説<薔花紅蓮伝>とは何の関連もない長靴と紅蓮の話になった(また‘最初に’フィルムが保存される長靴と紅蓮の話になるようだ).

代わりにキム・ジウンの<長靴,紅蓮>は原作小説に直接対面するよりは(原作小説もまたそこ属している)もう少し普遍的で古典的な寃鬼叙事の内部で罪の意識を浮上させる方式を選ぶ。 一緒に監督のジャンル的想像力の空間を構成するいくつかの恐怖映画らをあたかも寃鬼のように呼び入れる。 例えば映画の開始は(その空間と美粧傾向は,そしてショットのサイズで)まるで黒沢紀要時の<キューオ>(1997)導入部を連想させる。 ある精神病棟,医師と如幻者がテーブルを間に置いて向かい合って座っている。医師は彼女にいったいどんなことが起きたことなのか話してみろという。 場面が変われば私たちはもう長靴と紅蓮に関する話が繰り広げられることだと期待する。 だが監督が私たちに聞かせる話が<薔花紅蓮伝>と結んでいる関係は,映画<キューオ>が<青いひげ>と結んでいる関係ぐらい緩いのだ。

映画の二人の主人公の首尾と愁然姉妹が療養を終えて帰ってきた家は人里離れた所に位置している上に日本式家屋をまねたその外観おかげで一見<静かな家族>(1998)の山荘を思い出させるようにもする。 だがキム・ジウンはここですべてのユーモアを片付けてしまい徐々に本当に‘幽霊聞こえた家’話に没頭し始める。 初めには多少正しく把握できないが,明らかに映画を見るならばこっそりと疑惑が頭を上げる瞬間が訪ねてくるだろう。 ここに集まった家族ら-首尾と愁然,継母の恩主,そしてお父さんムヒョン-中に(で)誰かは‘すでに’死んだ状態だ。 ところで果たしてそれが誰ということか?

誰かは‘すでに’死んだ状態であることを明らかにしたといってこれをスポイラーと断定する必要はない。 <シックス センス>(1999),そして<ティ アドス>(2001)をすでに見た(本)これらにもうこういう推測はとてもやさしいことであり,その上監督もまたその点をよく知っている。 そうして<長靴,紅蓮>にはもう一つのトリックあるいは反転が重ねてかぶせられる。 この時首尾と愁然姉妹,そして継母恩主の間でほとんど存在感を表わさなかったお父さんムヒョンのその冷淡な位置がますます重要なことに席を占める。 妻と娘たちが神経戦を行う時,お客さんを招いた席で妻が奇異な態度を見せる時,お母さんの席を奪って妹を虐待する継母に対する怨恨が首尾によって爆発する時,彼は終始冷淡さを堅持するということによって映画の核心に置かれた‘なぜ,この家族はこのように奇妙な行動を見せるのか?’という質問とそれに対する返事を度々猶予させる。 また<長靴,紅蓮>はミイケ タカシの<オーディション>(1999)と中田ヒデオの<リング>(1998)から借用したのが明らかな場面を後半部に無理に配置しながらも,私たちがその‘なぜ?’に対して関心を持つのを阻止しようと入る。 ここでヒント,その‘なぜ?’に対する返事はアルフレッド・ヒッチコックの映画の中で一方中にある。

ところで<長靴,紅蓮>は<薔花紅蓮伝>と奇異にまた会う。 監督は原作を思う存分‘き損’すると公言したことがあるが,実際に彼がしたことという(のは)同時代ホラージャンル映画の要素らを古典的(原形的?) 寃鬼叙事内部でクルゴドゥロが配列させるということだった。 すなわち‘き損’なったことは古典的寃鬼叙事であって<薔花紅蓮伝>でない。 そして古典的寃鬼叙事のある特殊な事例という<薔花紅蓮伝>は本来の古典的叙事との関係以外に‘き損’なった叙事の<長靴,紅蓮>と特殊な関係を持つことになる(これを調べるのも興味深い物事になるだろう。 たとえば原作で長靴を謀略するために彼女のふとんの中にこっそりと革はがしたネズミの死体を置く継母の行為はなぜ<長靴,紅蓮>で愁然(紅蓮)の生理場面およびインコ殺害という二重の事件で分離,変形されたのかなど).

<長靴,紅蓮>は<静かな家族>以後短編(断片)<メモリーズ>(2002)を経てキム・ジウンが至った空間に関する理由を明澄に現わす映画企画(祈祷)する。 ここで彼はほとんど強迫的に見える程私たちを囲んだ現実の空間的特性を消そうと思う。 異国の空間と世帯らが空席を代わりに満たすが彼女らが見せる奇妙な美しさの中には見慣れないということと不調和が同時に刻印されていることだ。 そうしてそこまで結末を見ることが出来ない空の隙間で幽霊が出没する。

ところでこの空間は外側を必要としない。 その空間を構成するために引き込んだすべての要素らはその何に対するアレゴリーでもなくて,ただジャンル的遊戯のためのゲームの規則について機能するだけだ。 そうして<長靴,紅蓮>は結構りつ然と恐怖感を誘発したりもするエンティクデザインのびっくり箱であることは事実だが,空間を考える方式を考慮する時キム・ジウンが事実は前作らからそんなに遠く進むことができなかったことを立証する映画もまたなることだ。

::歴代<薔花紅蓮伝>映画製作記録

72年まで5編(便)製作,保存フィルムはオプソギムジウンの<長靴,紅蓮>以前,我が国で苦戦小説<薔花紅蓮伝>は1924年で1972年まで総五回にかけて映画化された。 これらは比較的原子力発電所に近く映画化されたことと推測されて,後ほど製作されたことであるほど長靴と紅蓮の複数行為に焦点が合わせた怪奇物ないしは恐怖映画の性格を強く帯びたことが分かっている。 だがこれらの中で現在までフィルムが残っている作品は一方もない。

最初の作品はキム・ヨンファンが演出した無声映画<薔花紅蓮伝>(1924)だ。 この映画は製作に参加した前スタッフが韓国人で構成された最初の映画であった。 しかしこういう歴史的意義とは別に作品の完成度に対する評判はそんなに良くなかったという。 また革がむけたネズミが見られる場面に対して拒否感を現わしたこれらもいた。 ホン改名が演出した1936年作品は有性映画で製作された。 解放の後作られた最初の長靴,紅蓮の話はチョン・チャンホァの<薔花紅蓮伝>(1956)だ。 以上の映画らに対する具体的な情報が残っていないこととは違って,チョン・チャンホァが1962年に作った<大薔花紅蓮伝>とイ・ユソプ監督の<薔花紅蓮伝>(1972)は各々あらすじとシナリオが伝えられている。 これら二つの映画では長靴と紅蓮の寃鬼が行う複数行為が著しく強調されたという。

小説<薔花紅蓮伝>は<キム・イン向前> <淑英娘子伝>と共にいわゆる‘アランヒョン’系列の小説と見なされる苦戦小説だ。 ‘アと伝説’という(のは)男性に強奪される危機からそこに抵抗して殺害された女性が寃鬼になってお上に現れて訴えるやお上が加害者を捜し出して懲治するという話を称する。 この話は近代作品らでも借用されるのに,幸せに暮らした女性が強奪された後殺害されたり自決すること,あるいは姦通寃罪をこうむって死に追い込むこと,男性によって背信に合って死ぬこと等で変奏される(以上の内容は百聞任意博士学位論文<韓国恐怖映画研究-女貴意叙事基盤を中心に>(2002)を参照,整理したこと).

文:流雲性(映画評論家)2003.06.10
by kazem2 | 2009-12-04 12:39