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by kazem2
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映画評論家・映画監督チョン・ソンイル①。。。教養が必要な映画を作りました

☆cine21.com












<子供のように,司祭のように>

“今回のクリスマスに雪が降りましょうか?”

毎年冬が近づけばチョン・ソンイル映画評論家はメール最後の端にそのように尋ねたりする(もちろんこれはサンドリン切られよう映画の題名でもある). 彼と書信とメールをやりとりしてみた人ならばチョン・ソンイルが季節の気配にどの文学少女よりさらに熱烈に感動する人なのか分かるだろう。 私は,することさえできたとすれば彼がメールに紅葉や花びらを同封して送ったことと信じて疑わない。 去る6月初めての映画<カフェヌワール>の仕上げ作業中だった彼はこのように書き送った。 “世の中を見回して,毎朝編集をするために家を出ます。 私はただ一度も芸術家の心を持ってみることができませんでした。 そのまま映画を見に行くシネフィルの気持ちでそのように編集室へ向かいます。 この映画が良いのか,どうかはよく分かりません。 だが毎日少しずつさらに愛しています。 キム・ヘリ氏は毎日少しずつ何をさらに愛していらっしゃいますか?”私は質問の答えをすばやく探せなくて,非常に恥ずかしかった。 無礼を甘受して使おうとするなら,私が分かるチョン・ソンイルは無邪気な人だ。 尊敬しながらも可愛いおとなという印象を振り切ることはできなかった。 無邪気な人だけがそのように厳格な一本気のことである。 <アラビアのロレンス>を見て2ヶ月の間ラクダだけ描いた小学校2年生が,映画に魂を強奪されたと感じた10代少年が,中年に達しても“人生で反則しない限り映画のためにどんな事でもする”と相変らず躊躇なしに話す時,私たちは彼が対策ない純性派という事実を認めなければならない。

1990年代韓国の映画評壇とジャーナリズムは西欧映画会社で最初の批評家らが登場した時期と類似の状況を通過した。 映画が現代世界で美学科倫理を仲裁する重要な芸術というもの,そして映画を真剣に議論してそれを通じて,私たちが生きていく世の中まで考えることができるという事実を見せなければならない時期であった。 チョン・ソンイルは韓国観客がいわゆる‘隠れたビデオ’を通じて,映画を再発見した1980年代末,90年代初めに月刊誌<ロードショー>を導いたし,芸術映画と遭遇した大衆が解釈の参考書を救った1990年代中盤以後<キノ>を作って強烈な指針と路線を提供した。 純情から始まった非凡な献身と能力は彼に権威とカリスマを付与した。 <キノ>のある記者はチョン・ソンイル編集長が記者らをいつも尊敬語で対して尊重したのに彼がぐるっと殴り書きした字の停滞(正体)が何かをとても直接問い直すことができなくて記者らどうし囲んで,相談したこともあると回想する。 少なくない読者らが<キノ>が優秀なふりをすると攻撃するときは彼は断固としていた。 “王家委,チャイミンニャン,ケン ローチが優秀だったがどうするという話か。”彼は映画評判を読む人に他の芸術批評の読者ぐらいの忍耐を正当に要求した。

私たちには多くの映画評論家がいる。 しかし個別作品の批評を越えて,映画媒体と私たちの人生の関係を悩んで,進んで再編しようと試みる批評家は指を折って数える。 同僚ホ・ムニョン評論家はチョン・ソンイルという存在が映画界で持つ重さの理由をこのように表現する。 “誰かチョン・ソンイルのどんな一つの評論よりさらに優れた評を使うことはできる。 しかしチョン・ソンイルのように毎瞬間すべての映画に対して評論家の自意識で対決して生涯を生きてきた人は韓国でなかったことないかと思う。”私たちがチョン・ソンイルの評論と映画を理解するために受け入れなければならない前提は彼の頭の中に入っている映画と現実のベンダイヤグラムだ。 彼はショットを使い果たすこととつまらない映画を見ることは人生を浪費するところだと感じる。 ひま潰しで映画を見る瞬間ひま潰しになるのは私たちの生活だと叫ぶ。 映画は世界の表面を触るので(に)世の中の約束をやむをえず引き込んでしたがって映画を理解するために世の中の多様な知識が必要だと考える。 (私が理解するので(に))要するに彼に映画は世界の鏡でない。 その中で生きていく人間の愛と存在方式を包括したより大きい何だ。

そして彼は五十になった今年念願してきた最初の映画<カフェヌワール>を完成した。 <カフェヌワール>はゲーテの<若きウェルテルの悩み>に基づいた1部とドストエフスキーの<白夜>を後に従う2部でなされた3時間17分の余情(旅行日程)だ。 人公の教師領収(領袖)(シン・ハギュン)は学生のお母さんの未然(ムン・ジョンヒ)と愛に陥るが彼女は結局“私の心の平和のためにこのようにずっと行くことはできません”と宣言する。 苦しさを耐えることが出来ない領収(領袖)は同僚教師未然(キム・ヘナ)の愛情を無視して自分を水に投げてしまう。 そしてまた起きて一人の男を待って疲れてしまった女線画(チョン・ユミ)を夜の清渓川(チョンゲチョン)で会って,瞬間の希望を味わう。 ゲーテとドストエフスキーのテキストにソウルのなじむ風景が入り込んで<真っ赤な風船>から<殺人の思い出> <オールドボーイ>まで多くの映画が中間中間首を差し出す。 死んでいく時間が急造された時間と戦って夢と現実,テキストと肉体がするどく競う。 多分これはチョン・ソンイルが見る2009年ソウルの表面と意識を記録した地図であろう。 彼は二番目映画のあるカットをすでにとっておいたといった。 その小さいフィルム組閣(彫刻)をお守りのようにふところに抱いて彼は二番目映画の入口に達する日までまた映画を見て読んで書くだろう。 きれいな日差しになにげなく手を差し出す子供のように,毎日信頼をぐっとつかむ司祭のように。

ついに監督として初めての映画<カフェヌワール>を完成しました。 永らく切実に,映画を作りたいながらももう少し少ない金と人材で着手可能な短編でなくあえて長編,それも商業的に封切りする長編映画に固執した理由は何ですか?

=その質問を正式化すれば制度圏中で訓練されたスタッフらと最小限の商業的ベースを持った予算規模の映画を作らなければならなかった理由が何かということでしょう? そうしてこそそういう制度中で作られる映画に関する質問に私が返事を救うことができるようでソでした。 中に入って,実践的に答えを得るのが重要でした。

-忠武路(チュンムロ)で現在作られる映画に対してまともに思考すること,まともに使うためにという(のは)意でしょうか?

=そこまで実用的な動機ではないよ。 ただし同時代監督らと長いインタビューをしながら何か十分に返事を得られないのは全面的に私の責任という(のは)考えました。

-<カフェヌワール>の初期の題名は<ティ ライデン:若きウェルテルの悩み>でした。 18世紀ドイツ小説を出発点とした理由は何ですか? また映画では小説でウェルテルがしばらく裸馬ロッテを愛して幸せだった時期が完全に抜けているのに映画の出発点をどのように捉えられましたか?

=<若きウェルテルの悩み>(以下<ウェルテル>)は疾風怒涛期ロマン主義小説だが,核心は王政貴族社会から資本主義に渡っていく履行期に二階級の葛藤を扱った話でしょう。 貴族的時代精神に対する観察でありその精神的没落を叙述した書簡体小説です。 前本来その話のメロドラマ自体は関心がなかったし今でもないです。 中学校1学年の時初めて<ウェルテル>を読んだが人妻を愛した話とだけ分かったところで誰もその小説が拳銃自殺で終わることと私に教えた人がなかったです。 その上その死は漢方に終わるのでなく血を散り乱れるように流しながら明け方まで苦痛を味わって持続します。 幼い心に大きいショックでした。 この死の延長が何を話すということだろうか。 三十が越えてまた掘出してみた時,アこれは階級に関する話だね。 言ってみれば一つの時代精神が没落するところで存在した苦痛を最大限延長させているという感じを受けたことでしょう。 映画の開始点はローラン バルトの<愛の断想>でヒントを得ました。 また<ウェルテル>を分からない人はないから(前の話を省略して)そこで始めても関係がないと判断したことでしょう。

-映画がどんな方法ででも分割される時,私たちは二部分の関係を尋ねることになります。 <カフェ ヌアル>は110分時点で映画がまた始まる形式を取っています。

=とても常套的には二部分はそれぞれ生と死です。 1部の原作はゲーテの18世紀ドイツの話(<ウェルテル>,2部の原作はドストエフスキーの19世紀ロシアの話(<白夜>)例です。 すなわち,革命全ヨーロッパと革命の後ロシアでしょう。 一方がアクチュアルある可能性ならば他の一つはバーチャルある可能性でしょう。 主人公領収(領袖)に従いながら二つの時代精神がどんな方式で共存するかを見せるのが重要でした。 どちら側に心を寄り添うかは観客の選択です。 それで“復活を信じるのか信じないのかは見る人が選択する問題”という大使を俳優の口を通じて,2009年を生きていく私たちに投げましたし。 私は私たちの時代が政治や資本主義に対して,自らの人生に対してとてもロマンチックなのが問題と考えます。 頼むからそのように浪漫的に見ないという言葉をいいたかったしそれで映画中間にブレーキを入れるほかはありませんでした。

ソウルで生きてきた私の記憶のアーカイブを再現-<カフェヌワール>は‘世界少年少女教養文学全集’という副題を付けているんですが。

=それは“この映画をこのように見て下さい”という私のガイドラインです。 観客の態度に対する。 例えばホン・サンス映画を見る時は直観が必要でキム・ギドクの映画を見る時は信頼が必要です。 ポン・ジュノの映画はアイディアを見るということだよ。 <カフェヌワール>を見る時には教養が必要だと考えました。 教養で見られる映画も一方ぐらいは韓国映画に必要ではないか考えました。

-映画を見て,キム・スンオク作家の<ソウル,1964年冬>が浮び上がったのです。 互いに分からない人々が突然ささいな話題で対話を試みてどんな可能性が開かれる風景のためだったようです。

=過分な比喩ですね。 一つは話せます。 セリフ内容は映画のために使って引用したわけだが映画で会うことになる人々はたった1人の例外もなしで私が生きてきて,見た人らから出ました。 例えば映画後半部に配達された手紙をカフェ テーブルで燃やしてしまう女が出てくるのにそれは鍾路(チョンノ)2街マクドナルドで私が直接見た光景です。 1人の女性が手紙を読んで涙を流すとハンドバッグでマッチを取り出して手紙を焼いたのです。 マネジャーが駆け付けて火を消してもちろん映画とは違ってほおを殴りました。 前斉家想像したのを映画でとるならばそれを信じられないと考えたのでシナリオを使って,必死に私の記憶中の人々をかき集めました。 <カフェヌワール>は言ってみればソウルで生きてきた私の記憶のアーカイブでもあることでしょう。

-映画が本格的に始める場所は千年タイムカプセルを埋めておいた場所です。 そして世宗路(セジョンノ)一帯,徳寿宮(トクスグン)大漢門,光化門(クァンファムン)再建現場,清渓川(チョンゲチョン)等のトゥレブルリンショッが続きます。 そして色々な韓国映画の引用が割り込みます。 この映画はソウルの地図という漸移明示されるようにする計算ですが。

=韓国という国はソウル民国でしょう。 ソウルを正確に話すことさえできるならば韓国をいうことができると考えます。 映画のロケーションが空間や場所中一つを選択することと見る時<カフェヌワール>のロケーションらは皆歴史を内包した‘場所’です。 撮影場所を探す時,二つのうち一つでした。 永らく変わらなかった場所と,私が幼かった時とは完全に違うように変わった場所. それでその二つの場所を繋いで付ければモンタージュの間隔に歴史があるんじゃないだろうかという考えました。 そしてソウル市民ならば誰でも見ればどこか分かる場所を選びました。 それでこそそちらに対する記憶と情報知識を疎通できるからです。

-<カフェヌワール>を見る観客が皮膚で一番最初に感じる特徴は文語体セリフとそれを朗唱するように話す演技スタイルだろう。 演技演出の原則があったの?

=分かるようにそのセリフらは原作で借りてきたものなどです。 私はそのテキストを,日常でするはずがないそういう話らを,身体がどのように耐えるのか見たかったです。 それで俳優らに可能ならば原作を読まないでくれとしました。 演技者がその台詞を言うためにはとにかく自分の身体中に引き込んで,抑揚を入れなければならなくてどんな方式にも自分の経験化します。 要するにすべての俳優らがセリフを自分の方式で誤読をすることを願いました。 それで同じゲーテのテキストでもセリフらがみな成績(polyphonic)がなってませんか? その感じを映画で得ようと思ったことです。 テキスト リアリズムは正確にそのような意味です。 写実的という話は多様な意があるのに,18世紀小説を私が写実的にとることにはなりません。 それでも脚色はならないから,そのまま話されるべきだと考えました。

遠からず最初の評論集も出てくると聞きました。 イム・グォンテク監督様に関する二冊のインタビュー集などの色々な本を構成したり共著したが単独評論集は初めてですが。

=制が今まで書いた文中一部に対する読書感想文を漫画がオルドゥドク政友列氏が描く本です。 全てその本だけのための二編(便)の新しい文を載せるでしょう。 一つは‘私はなぜオルドゥドクと作業するのか’に関する文,また一つは‘映画を演出した以後映画批評を何であると考えるのか’に対する文です。 映画を作った後書く初めての文という点で私文を書くことの新しい0度だと言えるでしょう。

-よく出てくる評論集らとどんな区分を作るためにそのようなフォーマットの本を選ばれたようです。 映画評判は時間と共に流れて増える間で書かれなければなければならないとおっしゃった思い出します。

=“これがこの人の考えだ。 真髄だ”と定義されたくありませんでした。 本を出す時,最も大きい恐れはそれによって考えがもう一歩出ることができなくて留まることですね。 実は本当に書きたい本が二冊あります。 一冊は映画用語集です。 例えば‘スローモーション’ならば目に見えるスローモーションの代わりに映画で感情のスローモーションとは何か,正常に画面は過ぎ去るのにスローモーションのように感じられる瞬間映画での遅刻(知覚)と五性の差は何かを映画らの場面例を持って記述する本でしょう。 11ヶ程度の概念を抜いておきました。 また他の本は映画を撮って,ずっと読んだ映画に関する文十編(便)に対する注釈です。 ウォン文よりはるかに長い注釈になるでしょう。

離れた友人と映画ノートの思い出-ながい知人でも同僚にも個人的話はほとんどしないことで分かります。
=そのまま不便(不快)ですので。 甘えるようだし。

-家の長男で,息子の映画趣味に対してお父様が好意的でなかったと読みました。

=正確に話せば今でも認定はしませんね。 <キノ>を創刊した翌年に新年挨拶を差し上げたがふとこの頃何をして暮らすと尋ねられました。 映画雑誌を作っていると申し上げたところ“ところで君はいつから仕事をして生きることか”としたのです。 言ってみれば趣味で人生を生きるごろつきのように見えたことのようです。

-学生時代教室の中や外で一人で送る時間が多かったんですか?

=友人と映画を一緒に見に通ったのは中学校2学年が最後でした。 そのうち近かったある友人が清掃をしないで行ったという理由で担任教師に頬を打たれてはね返しました。 そのことで友人は学校を離れたし以後では変に他の子供たちとも疎遠になりました。

-映画が先輩の一番古くなった友人ですね。

=人生の中間中間割り込んだ多くの友人らがいたが映画はずっと私のそばにあった唯一の友人であるわけです。 友人らとは失望,背信,離別があったが映画は一度もそのようなことがありませんでした。

-先輩が10代であった1970年代初めソウル,城北区(ソンブクク)の劇場風景はどうだったんですか?

=米も,ミアリ,明倫(ミョンニュン),大地(敷地),授乳劇場など8ヶ所程度が小学生の時私の領域であったし中学生以後ではさらに遠くまで行きましたよ。 その気持ちの時劇場ならば常に危険な場所でした。 ともすれば兄同じ年頃男の子らが財布をはたいて,いつもぴったり劇場値段だけ持っていました。 もちろん金がなければ合うが幼い心にお金を奪われれば次の映画を見られないといっそ合うのがより良いと判断しました。 お小遣を集めてお昼を買って食べると弁当の代わりに金を受け取って,三,四食集めれば映画を見ることができましたよ。 隣の席で探ったその多かったおじさんらは今はみなどこへ行かれたか気になります。 (笑い)

-聞いて見ると映画だけ早く好んだのでなくお金が何か暴力が何かまたおとな世界の闇が何かみな映画館で初めて体験したんですね。

=私が分からなければならない全てのものは九才の時映画館でみな習ったということができるんです。 (笑い)

-中学生の時必ず見なければならない映画500編(便)のリストを作成されたというのに,当時は救うことができる情報量も微小だったはずなのにどんな資料に寄り添って,目録を作成したんですか?

=ノート一冊いっぱいであったから500編(便)越えたでしょう。 中学校1学年2学期に明洞(ミョンドン)の外国雑誌店で日本の<スクリーン>と<エイガノトモ>を買いました。 表紙見て買って苦しくて,冬休みの間漢字とカタカナを組み合わせて,独学で読み始めましたよ。 パンジーは(fanzine,スターのファンをターゲットとした映画雑誌)だが一部ページは専門的な雑誌なので毎月ヌーベルバーグ ベスト5,ゴダール ベスト5等多様なベスト5を選ぶコーナーがありました。 日本雑誌を通じて,映画情報を求め始めたことでしょう。 珍しいことは,ノートに映画の題名を使ってみたくて見たくて念願すればどうにか奇蹟のように見る機会ができますよ。 応答がきます。 映画を見れば一つずつノートの題名を消していく楽しみがあまりにも大きかったです。 後ほど<デスノート>を見て,私のアイディアを盗まれたことでないだろうかと思いましたから。 (爆笑)

-大学在学中に作った8mm,16mm映画らはどんな映画だったのか気になります。

=話にならない映画らです。 映画本を読めばするなというものなどあるでしょう? それをすべてしてみました。 180度想像船を守らなければショットがつかないと使っているので本当に付けてみたというから問題が必ずできましたよ。 試行錯誤よりより大きい教えはないのを分かりましたよ。 どんな場面はゴダール映画と同じようにコンテを組んでなるがならないと思ってみました。 その興味がないです。 単に演技者の差でもなくて原本と複製の問題でもありませんでした。 それで私が探した単語がマジックです。 どんなマジックがその瞬間に必要なことでしょう。

その映画らだけが中は‘マジック’-韓国映画に関し映画私的関心を持って几帳面に見始めたことはいつからでしたか?

=幼くては韓国映画を‘道理なしに’見ました。 外貨を見ようとして行って同時上映で見ましたよ。 <ホンサル門> <烈女門>等,その文シリーズら. 本当に嫌いでした。 (笑い)そうするうちに高等学校1学年の時イ・マニ監督の<森浦へ行く道>を見ました。 ‘マジック’でした。 映画でムンスクがペク・イルソプ,キム・ジンギュと別れた後市場通りをさ迷うシークエンスで何かものすごいことを見ているという感じを受けました。 韓国映画には私が知らないまた他の世界があるという気がしたし以後韓国映画を探してみましたよ。 しかし大多数が私を失望させたしついに<森浦へ行く道>は例外かも知れないという考えさえしました。 以後イム・グォンテク監督の<家系図>を会ったのが1979年であったから長い時間がかかりましたよ。 そして当時には民族文学論争とモダニズム論争が激烈でした。 韓国的なのがなにかという質問を文学が投げたし私たちのニューフェース大学生らもどんな方法ででもその答を猛烈に探していましたよ。 私は,映画という範疇中でその返事をそれなりの方式のとおり(求める)救っていましたし。 ところでふと<家系図>を見る瞬間ひもが捕えられました。 イ・マニ映画がヨーロッパ映画のいとこのような感じだったらイム・グ>ンテク映画は韓国映画を発見したという感じまでありました。

文:キム・ヘリ写真:オ・ケオク 2009.09.28
by kazem2 | 2009-09-28 09:17