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「1千万映画海雲台(ヘウンデ)」②監督が伝える製作過程

☆news.naver.com



<ソウル=聯合ニュース>ハン・ミヒ記者

コメディ監督が災難映画を作るという話にあらゆる悪いうわさと不信に苦しめられたユン・ジェギュン監督.

1千万観客突破を控えてその間の精神的苦労を洗い落としたユン監督から5年に達する製作過程を聞いてみた。

▲2004年12月26日,東南アジアに津波が近づく

当時'ロマン刺客'が惨敗した後と完全に挫折して,頭も冷ますのをかねて一人でお母さんがおられた海雲台(ヘウンデ)に降りて行っていた。

お母さんとともにTVを見るのに東南アジアで津波が発生したという記事を見てふと'百万人波が集まる海雲台(ヘウンデ)にあんな災難が発生するならばどうなるだろうか'という漠然とした想像をしたし,その想像が映画'海雲台(ヘウンデ)'の出発点になった。

▲ 2007年9月,海雲台(ヘウンデ)ホテル合宿開始

頭の中で転げまわった話は2007年2月'1番街の奇跡'が封切りした後,キム・フィ作家とアイディアをやり取りして構成を整え始めて7~8月頃基本シノプシスが出てきた。 9月には海苔作家と製作総括を引き受けたキル・ヨンミン理事が共に海雲台(ヘウンデ)あるホテルで合宿に入った。

各自考えた人物数百人を図表(道標)を描いておいて激しい討論に一名ずつ減らしていって,最後まで生き残った人物が映画主人公らだ。

10月に海苔作家が1次草稿終えて出た後にも10回余りに達する再考と脚色を経て,2008年6月に最終シナリオが完成された。

▲ 2008年4月,ハンス ウールリークに会う

以前に韓国やニュージーランド企業等と先に話をしたが技術的にも費用的にも合意点を見出しにくかった。

結局韓国と作業をしてきたし最高の実力を認められているハンス ウールリークに会うことにして4月に米国に行った。 契約が成し遂げたのは8月だ。

私は'まず貸金(代金)を一度に支払うことはできない','毎月一定金額を与えて最後に完成された時,完成度を問い詰めて,残り金額を与える'でした。 また水CGに対する核心技術を韓国に移転してくれることを要求した。

この条件のためにずるずる流れた交渉が7月に一度決裂して,製作部と演出部を解体することもした。 また話を始めて,契約予定日直前にハンスがOKをした。

▲ 2008年7月主演俳優キャスティング仕上げ

ハ・ジウォンは私が'ロマン刺客'で完全に地に落ちた時も'1番街の奇跡'シナリオも見なくて一緒にするといった友人だ。 今回もやはり草稿作業中に話して,無条件OKした。

ハンス会いに行く日空港でソル・キョング マネジャーにシナリオを見たいという電話がきた。 米国行ってきて,シナリオ修正して見せることにして,2週ぐらいの後に事務室でシナリオ修正しているのに夜11時にソル・キョングが酒に酔って,直接電話した。

その日会えて酒飲んで話して互いに抱き合って泣いて吐いて大騒ぎであった。 互いになぜそうしたのかは記憶することもできない。 後ほど話聞くとソル・キョングが'1番街の奇跡'を良く見て関心を持ったといったよ。

キム・イングォンは演技するのを見守って好んだ。 ドンチュンというキャラクターを作る時からキム・イングォンは決まっていた。 シナリオが出てきてパク・チュンフンとオム・ジョンファがキャスティングされて7月にイ・ミンギとカン・イェウォンが決定されて,主演俳優らが確定した。

▲ 2008年8月初め,CJエンターテイメント130億投資決定

7月17日投資関係者の前で直接プレゼンテーションをした。 災難映画20編余りをかけはぎをする年デモ テープを作って水と関連したコンピュータ グラフィック コンテ110カットを3D動画で作った。

1ヶ月超えて徹底して準備して,自身はあったが私自身がとてもみすぼらしかった。 監督が直接プレゼンテーションをした歴史家いないが,私が投資家でも私を信じられないそうで私が先にプレゼンテーションをするといった。

プレゼンテーション反応は良かったがあまりにも予算規模が大きい映画とさっさと決定はできなかったよ。 それでも8月初めに製作費130億全額をCJで作ってくれることに決定された。

▲ 2008年8月18日,初めての撮影に入る

'海雲台(ヘウンデ)'を映画で作ると考えて何と5年が過ぎた時点だ。 撮影会場の尾浦船着き場へ向かって,数多くの考えらが走馬灯のように通り過ぎた。

とても幸せだった。 いよいよ始めるんだな…. 初めての撮影日天気も雨が降りそうだったが来なくて,とてもがあんしてはいけない日には適当に曇って,撮影終われば雨が降って,天気がたくさん助けた。

▲ 2008年11月7日,57回送でクランクアップ

津波がさらって過ぎ去った海雲台(ヘウンデ)復旧作業と違令所場面だった。 韓国での最後の撮影だとCJエンターテイメントをはじめとして,すべての協力業者関係者たちが現場を探したし,スタッフらまで含んで,皆エキストラで動員した。

▲ 2008年11月24日,米国,サンフランシスコ現地撮影

キム・フィ博士がホテルに閉じ込められた娘ジミンを求める場面,ヒョンシクの最後の場面,初めに出てくる遠洋漁船場面だった。

現地スタッフらは午前9時に出勤して,準備,整理時間2時間を含んだ総10時間撮影時間を刃物のように守って困りきった。 ワンカット残ったし30分ならばとることができるのにも絶対許容しない。 時間を越えればお金を二倍より多くやらなければならなかった。 韓国のようならば人情から言えば絶対そんなにしないのに….

それで序盤には現地スタッフらを配慮して,話もたくさんしようと努力したが,撮影が押されるから私も結局窮屈な日程で行かざるを得なかったし12月17日に16回送で終えた。

▲ 2009年6月18日製作報告会

そんなにいざこざの多かったコンピュータ グラフィック場面を初めて公開していちいち説明した。 もう一度私自身がみずぼらしくなった日だった。 私がこんなにまでしなければならないか,私が作品と認められる監督だったらそのようなうわさも回らなかっただろうし,このように時間らで資料作って記者らの前でまたプレゼンテーションすることはなかったことではないのか。

映画本編作るのも日程に追われていたがあまりにも良くない噂が広まっていてせざるを得ない状況だった。 とてもくやしかったしこのまま行っていては映画が封切りする前に滅びるように容姿だ。 私の前作が積んだ十字架のためだと考えた。

報告会当日にも翌1時から4時までハンスと画像通話で懐疑して大ゲンカした。 わずか数時間後に報告会長でまた画像電話を連結して何のこともなかったように'ハイ~ハンス'と挨拶した。

封切りが2~3週残った時なのに,その時間は人々が'一度待ってみよう'という考えでもするようにさせたかった。

▲ 2009年7月16日試写会

とても震えて何の話をしたのかも考えも出ない。 '津波だけある映画ではない。 津波もある映画だ'といったのは必ず言いたくて準備したことだ。 どれくらいそこにストレスを受けたら….

▲ 2009年7月27日,初めての週観客200万

初めての週に200万出てくること見て気絶した。 内心望んだのは150万だった。 '怪物'が初めての週に200万出てきたので私たちに200だけは夢の数字であった。 '1番街の奇跡'は1ヶ月半して280万であったのに4日ぶりに200だけが出てきたことだ。

第2週に500万出てきた時は'世の中に,これがなんだ'したし第3週月曜日だった8月3日に平日最高観客(39万人)を記録した時は数字が間違って出てきたのではないかと確認した。

eoyyie@yna.co.kr 記事入力2009-08-19 06:00
by kazem2 | 2009-08-19 07:15