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映画「海雲台」 シネ21的考察

☆cine21.com



災難映画の欲望,コメディの実現
文:精悍席| 2009.08.06
ハリウッドの公式を抜け出した<海雲台(ヘウンデ)>に対する断想>

映画<海雲台(ヘウンデ)>に関する色々な短い断想をいわなければならないようだ。 ホラー映画の観客は徹底して行って/被虐的快感で自身を映画の中に同一視する。 ホラー映画を見る時の快感はそれがスルレショムビイゴンオカルト無比でも見えない力に制圧されて引きずられて行って結局一部分勝利したり永遠に敗北するのを見る快感だ。 そのようなホラー映画の欲望に匹敵するほどの欲望が感知されることが災難映画だ。 もちろんホラー映画の悪魔的行為に影響を受けたあげく現実で猟奇的な行為が起きるのと相反するように(ロマン ポルランスキーの<悪魔の種>を見た後悪の追従者らがロマン ポルランスキーの妻を殺害した犯罪)災難映画ではそれが基的に不可能だ。 あなたが<トゥモロー>私<海雲台(ヘウンデ)>を見た後自らをトルネードや津波と勘違いすることは難しいことだ。 いやそのように勘違いするとしても何も広がらない。

だが時々ホラー映画と災難映画でのどうだったことの上程(想定)に対してさらに考えてみる必要があるようだ。 その少ない時では分からなくてそのまま‘何か’だ。 あるいはそれはアルフレッド・ヒッチコックが自身の映画<新しい>の鳥を示して話したように‘何でもないこと’だ。 卑しくて醜い殺人魔または怪獣にこようが巨大な自然の侵略にこようがそうである。 この話を災難映画に限定して,このように変えてするはずだ。 いつも危険だと判断される所で起きるのをジャンル的災難だと話さない。 映画<タイタニック>が見せたように永遠に沈まないことのように見えた腹(船)が沈む時,その象徴的強固さが実在の帰還でこわれてしまった時,それを災難のある項目で記入して入れるはずだ。

決定的に私たちが災難映画で迎えることの実体は象徴の体系を威嚇する実在のあらわれることでたびたび理解される。 その実在の侵攻は‘そうだと思っていた’という反応ではいつも不備で,それよりは‘そうするとは思わなかった’すなわち不可能だと信じたのがついに発生する過程だけで効果が立証されることだ。 それが災難映画の最も著しい欲望の中の一つと話してもかまわないことで,<海雲台(ヘウンデ)>の欲望といってもかまわないだろう。 <海雲台(ヘウンデ)>で博士キム・フィ(パク・チュンフン)が何回も人々に警告するがそれが姿を表わす前まで予測されないという理由でキム・フィを信じる人は誰もいない。 海雲台(ヘウンデ)にまさかそんなことが…韓半島にまさかそんなことが…と皆話す。

<トゥモロー>きて<海雲台(ヘウンデ)>の差韓国映画で災難映画の代わりにホラー映画に集中的に関心を傾けてきたことには理由があるだろう。 ホラー映画が恐怖を助長することの再現的規模に執着しなくて成立可能だったとすれば災難映画は災難の再現的規模を差し引いて成立可能でないためにその間延ばされてきただろう。 少なくとも今までそのようにしてきた。 韓国型ブロックバスターの欲望が専有されて,変形された後,ここに新しいものに対する信頼がCGに対する信頼で綴られて,誕生したのが<海雲台(ヘウンデ)>だ。 するとCGは映画という世界中に突然押しかけてきた実在のように振る舞う。 映画<海雲台(ヘウンデ)>がCGの規模をいってそれの再現的完成度を広報する時,それは災難映画の欲望を広報するのではなく実は災難映画の欲望が必要とする最初再現要素を部分的に広報するだけなのにそれがこの映画の全部のように話すようになる理由であろう。

このように見るならばローランド・エメリッヒの<トゥモロー>を見るのとユン・ジェギュンの<海雲台(ヘウンデ)>を見ること間にどんな差があるだろうか。 ユン・ジェギュンは何回もハリウッド災難映画と<海雲台(ヘウンデ)>の差をいってきた。 その時差は叙事化にあると信じるようだ。 ユン・ジェギュンは<海雲台(ヘウンデ)>を作ってハリウッドの英雄主義叙事がうんざりして,違うものを作ろうと思ったといったがここに彼が話す差化があるだろう。 その漸移全面的に映画に再現されたことなのか尋ねるに値する。 <トゥモロー>で氷河期の寒さに閉じ込められたニューヨークの息子を(求める)救うために博士が道を出た時,2人の主要同僚中ひとりが死ぬが主人公は死なない時,それは一種の叙事的慣習への維持だ。

<海雲台(ヘウンデ)>でも主要人物らが死ぬ。 ひとりは海雲台(ヘウンデ)地区を売って,巨大商圏を形成しようとするマンシクの小さいお父さん(ソン・ジェホ)でありまたひとりは安全要員ヒョンシク(イ・ミンギ)だ。 実は主要人物中キム・フィとユジン(オム・ジョンファ)も死亡するがこの二つの最後の姿を映画は積極的に表わさないので大きい傷痕を残さない(理由は分からないが両親を失った子供も悲しむ表情でない). マンシクの小さいお父さんと安全要員ヒョンシクの死が目立つのに二つの共通点は皆誰かを生かそうとしたが死ぬという点だ。

災難映画の欲望が災難の規模という時,その欲望に対する倫理は途方もない災難の中に行使される人間愛で代弁される。 集団の結束力回復と打者(タイプ)の犠牲を防ぐための献身的自殺のパフォーマンス. 美人と悪い金持ちの家道令まで求めたヒョンシクは自らザイルを切って,下に下降する。 災難映画の古くなった苦戦<ポセイドン アドベンチャー>で他の人々の命を生かすのに一助となるために牧師が自らの命を絶つ時とそれが大きい差があるようではない。 例えば災難が訪ねてきた時,そこに対抗する人間のヒューマニズム的行為をどんな災難映画でも持っている。 <タイタニック>の愛も同じことではなかったか。 それが愛でも人間愛にしても同じだ。 なので災難映画には標本集団の産出(算出)-<その集団らのあいだの危機->そのうち誰かの献身の行為という共同体的叙事が流れるはずだ。 <海雲台(ヘウンデ)>はそれを純種(従順)的に従う。 <海雲台(ヘウンデ)>は災難映画のこのような叙事的面目(容貌)に従いながらも,英雄中心主義を飛び越えたと勘違いするようだ。 そして災難映画でそれは必ず飛び越える必要もないことだ。 適切に配合されるならば捨てなくても良いクルリセだ.

度々コメディだけカンジョドェゴジョンジャク差は他のところにある。 その部分が成功的なのかは疑わしい。 <海雲台(ヘウンデ)>は全体の完成度を捨ててあたかも二つの映画を付けておいたような感じに二分化された。 この映画はユン・ジェギュン式のコメディと災難映画の上だらけ前半部と後半部でついている。 そうではないならばいくつかのとても長い場面の用途に関して,私たちは説明する方法がない。 あるいはこの時この映画がハリウッドの方式と距離をおこうとする映画的自我を追求したとしても,方式が違うだけ効果は同一に発生させる場面をいってもかまわないだろう。 例えば突然便器を突き抜ける職員のシニ始まった時,誰でもこの場面がここになぜ入っているのか尋ねることになる。 この人はぴったり二カットに登場する。 一度は便器を突き抜けて一度はエレベータードアをあけて,ユジンを生かす。 または繰り返し挨拶して観客に私を記憶しろというように刻印を訴えて退場するのりまきおばあさんの姿を見る時,この場面が何のためのものなのか考えることになる。 キム・フィが娘をヘリコプターに乗せる時,それを受け入れた人がまさにそのおばあさんという事実をこの映画のショットは勢いいっぱいに見せる。 だが突然なこの二人物の登場は英雄主義を抜け出そうと思った映画が選択した方法としてはとても直接的だ。 結局英雄主義が負担になることは彼のヒューマニズムのためという時<海雲台(ヘウンデ)>は他の人物としてその一次元的なヒューマニズムを守る。

ハリウッドの公式を抜け出したと宣言した時<海雲台(ヘウンデ)>が明確に強調するのは実はここにコメディが作動するというのを見せるところにある。 先立って開封された<チャウ>きて<海雲台(ヘウンデ)>はそのような点で類似のジャンル脱走を試みる。 自らのジャンルすなわち怪獣映画と災難映画という枠組みでいくらか自由なために引き込むことがコメディだ。 そのコメディという手段で何か成し遂げたように訴える。 だがコメディが映画の全体リズムを分散させるならばそれは果たして守らなければならない何だろうか。 コメディ映画の場合全体リズムを破って各ショットにあるいは各シーンにだけ集中するようにする副作用を産む場合がある。 <チャウ>きて<海雲台(ヘウンデ)>がそのようだ。

映画監督ペドロ コスターはスタンリー・キューブリックを置いて“彼は映画を作ったことでなくショットを作った人”と話したことがある。 言ってみれば全体の完成でなく部分の完成に執着する映画という意だ。 <海雲台(ヘウンデ)>のコメディがする役割が,あるいはCGがする役割が彼と似ているように見えるならばそれはとてもパク・ハン視線であろうか。 なので<海雲台(ヘウンデ)>は災難映画の欲望を標ぼうするが,実はコメディとCGを強調する。 その二つの結合がそれほど調和がとれて見えはしない。 変なことだ。 昨今の韓国大衆映画は全体のリズムを破って部分のコメディを擁護することが,あるいはCGという何かまたは何でもないのを信奉することがあたかも世界の創造という問題を対面した演出者のどんな決断力だと信じるようだ。

文:精悍席
by kazem2 | 2009-08-07 09:16